南国土佐へ来てみいや

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川原塚茂太郎 - 坂本龍馬の義兄で土佐勤王党には11番目に加盟

川原塚茂太郎(高知市)

[ 高知県高知市 ]


土佐を離れて早半月以上が達ち、新天地での生活にも何とか慣れ、時間の余裕も出てきた次第です。
また、少しずつ、撮り貯めた写真で記事を掲載して行きますので、改めて御愛顧の程、よろしくお願いします。

思えば遠くへ来たもんで、土佐から遠い地球の、とある片隅から・・・・・


ブログ再開の最初の記事は、やはり坂本龍馬に関わりのある義兄・川原塚茂太郎ですき。

川原塚茂太郎(かわらづか もたろう)は、文政13年(1830)に高知城下南奉公人町(現・高知市)の土佐藩徒歩格・川原塚重喜の子として生まれ、名は重幸と言うがです。

前述で記した義兄と言うのは、坂本龍馬の兄・権平さんの妻・千野さんの弟になるからながです。

川原塚茂太郎は、文久元年(1861)に武市瑞山が江戸留学中に土佐勤王党を結成して土佐にもんて(帰って)来て直ぐに土佐勤王党血盟同士として11番目に加盟し、同志糾合に尽力したそうですが、他の仲間達のように京に上って奔走したり出来んかったがです。

それは、年老いた母と、精神を病んだ姉を抱えちょったそうで、他に面倒を見る者が居なくて、自らが母と姉に孝養を尽くさざるを得なかった言う。

「そりゃー、たいへんじゃねー」と言うは易しで、人間そうゆう境遇になって、年老いた親を見たり、病人を介護せん事にゃ、他人の苦労は分かりませんき・・・・・。、

ちょっと余談じゃったけんど、それでも、茂太郎は土佐にて自らに出来える事に尽力しちょるがです。

元治元年(1864)にゃ、土佐勤王党の獄で牢に繋がれた武市瑞山や仲間達を救うべく南会所への決死建白を行って党の挽回を図ったりと、土佐に残った土佐勤王党員の中核として奔走し、仲間達のために尽くしちょるがです。

戊辰戦争では、慶応4年5月(1868)、越後長岡藩家老・河井継之助と新政府軍軍監・岩村精一郎が小千谷の慈眼寺で会談するも決裂した事で、同年6月、川原塚茂太郎は戊辰戦争最大の激戦の一つ北越戦争に軍事掛徒目付として従軍し11月に土佐に帰国しちょります。

維新後は讃州金陵会議結、川之江民政局副参事を歴任し、明治3年(1870)職を辞して土佐に帰国し、明治6年(1873)にゃ教部省に出仕するも、明治8年(1875)に辞職し土佐に帰国しちゅう。

けんど明治9年9月2日(1876)、国事犯の嫌疑を受け東京の警視庁に抑留され拘留中の、同年10月16日に獄死しちょります。

拘留僅か1ヶ月半。

病死だったのか、拷問による死だったのか・・・・・。

享年47歳。.

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社


川原塚茂太郎(高知市)

この、お墓は遺髪墓で、写真の墓碑にも刻まれちゅうように、「葬東京白金丁(町)善長寺境内」に埋葬されたようじゃけんど、現在、東京都港区白金にゃ善長寺は見当たらん。

調べたら、他の寺と合併して、現在、善長寺は存在しません。

増上寺子院群

『江戸名所図会』のなかの名所として記されていませんが、明治の地誌「風俗画報」東京近郊名所図会には、上大崎1丁目の増上寺下屋敷についての記載があります。

現在、増上寺子院群とよばれているところで、寛文元年(1661年)麻布狸穴(港区)から移転してきた本願寺・最上寺・戒法寺・光取寺・清岸寺・正福寺・善長寺の7ヵ寺に、高輪から移ってきた了福寺の8ヵ寺でした。

正福寺・善長寺・了福寺は廃寺となり、正福寺跡には後に移ってきた常光寺と、善長寺は隆崇院と合併、また了福寺跡には宝蔵寺、昭和6年(1931年)には月窓院が移ってきて現在のような寺町となっています。

【 参考・引用 】  江戸から明治の品川名所 第9回|品川区




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!

  



韮ヶ峠 - 文久2年(1862)3月坂本龍馬此処より土佐を出藩   

韮ヶ峠(檮原町)

[ 高知県高岡郡檮原町 ]


文久2年(1862)3月、坂本龍馬が土佐を出藩した際に通ったと云う韮ヶ峠(にらがとうげ)は、須崎から標高約400m程の場所に在る梼原迄バスで行き、其処から四万川の上流部になる標高960mまで標高差約560m程を、えっちらおっちら登り詰めた高知県高岡郡檮原町と愛媛県西予市の市町境に位置しちょります。

檮原町の維新の門群像 ―(徒歩40分:4km)→宮野々番所跡―(徒歩2時間:8.5km)→茶や⾕の茶堂―(徒歩15分:0.5km)→松ヶ峠番所跡―(徒歩2時間10分:6km)→韮ヶ峠(愛媛県境)

【 参考・引用 】  坂本龍馬脱藩の道を歩いてみませんか!?/高知県梼原町


龍馬と一緒に出藩した沢村惣之丞が記した『覚 関雄之助口供之事』よると、文久2年(1862年)3月26日、龍馬は四万川から韮ヶ峠を経て伊予・大洲の方に出たとされちょります。

韮ヶ峠(檮原町)



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下元西州先生退筆塚 - 死後13年目に下元西州の門人たちが建てる

下元先生退筆塚(須崎市)

[ 高知県須崎市西町 ]


この下元先生退筆塚ちゅうがは、須崎市の四国別格二十霊場第5番札所・大善寺の大師堂の脇に建てられちょります。

下元西州塾跡 - 武市瑞山の叔父・鹿持雅澄も門人の一人じゃったと 2014.10.27

下元先生退筆塚(須崎市)

この石碑は下元西州の死後13年目の天保14年(1843)に、下元西州の門人じゃった人々によって建てたもので、廃筆を埋めた上にこの石碑が建てられちょるそうです。

先生之書 白唐溯晋 特慕右軍 技与道進
玩字読文 贈言有訓 勝遊有記 政令有論
於戯先生 徳芸兼并 宣哉遠近 化及教成
筆或雖朽 不朽者名 聞名懐実 吾斯作銘
天保十四年九月 浪華篠崎弼撰書


撰文は大阪の書家・篠崎小竹と刻まれちょります。

篠崎小竹

天明元年(1781年) 、豊後国の医師・加藤周貞の次男として大坂に生まれる。

9歳で篠崎三島の私塾梅花社に入門し、古文辞学を受ける。
三島に後継ぎがなく13歳の時に望まれて養子となる。
しかし、江戸幕府による寛政の改革が進む中、頼山陽に感化されると養家を抜け出し、江戸に遊学。尾藤二洲に学び古賀精里の門をくぐって朱子学者に転向する。
その後、養父・三島に詫びて和解がなり、梅花社を継いでいる。三島にも勝って塾は栄え、多くの門弟を育てた。

詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。
篆刻も得意とし稲毛屋山の『江霞印影』にその印が掲載されている。
温厚で社交好きな性格だったこともあり、関西学芸界の名士となった。
頼山陽とは、養父・三島が菅茶山と悶着のあった春水の長子・山陽を預かることとなり、小竹はすぐさま山陽の才能を見抜き、茶山との間柄を取り持ち常に山陽を擁護した。
その友情は山陽の死後も続き、遺児の面倒までみている。
また、大塩平八郎とも養父・三島に初読を習った弟子である関係で交流があったが、平八郎は陽明学者で朱子学者とは犬猿の仲であり、兄弟子である小竹とも学説上の対立があった。

嘉永4年([1851年)、死去。享年72。

【 参考・引用 】  篠崎小竹 - Wikipedia



下元先生退筆塚(須崎市)

右が下元西州の筆塚で、左側は明治6年に建てられた下元西州の養子になった下元州浦の退筆塚ながです。


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