お馬神社(お馬堂) - 2度目の追放で須崎に送られる




[ 高知県須崎市池ノ内 ]


はりまや橋の、坊んさん・かんざしの歌でお馴染の、純信お馬さん。

事件が起こったがは、安政2年じゃと言うき、坂本龍馬が1回目の江戸への剣術修行から戻んて来ちょった頃の事で、街中噂になっちょった2人の事も知っちょったろーと思うが。

駆け落ちの末、讃岐は金比羅山、石段のそばにあった旅籠・高知屋で捕縛され、土佐に送り返されるがです。

土佐で入牢しちょった場所が、山田町の番所(現・高知市はりまや町3丁目)。

岡田以蔵や、平井修二郎らも獄に繋がれちょった場所ながですよ。

山田橋番所跡・獄舎跡 - 岡田以蔵や平井収二郎らの非業の地 2010.04.17

そんで此処で裁きを受け、罰として4ヶ月の入牢の後、この山田橋番所や、三ツ頭番所と思案橋番所でそれぞれ3日間の面縛(晒しの刑)に処せられた上、領内追放となった純信は伊予の川之江に、お馬さんは高知の東、安芸川より東に追放となったがじゃそうです。

お馬さんは、安政2年9月頃から追放された安芸川以東で女中として真面目に働きよったそうなが。

ところが、翌年の春になって、行商人に身をやつして追放された筈の純信が、お馬の元に現れたと・・・。

なんでも、純信の年はお馬さんの倍以上も離れちょったそうながぜよ。

当のお馬さんはもう駆け落ちするがは嫌や言うてイザコザになって、駆けつけた役人に再び捕えられたがじゃそうです。

なんぼ恋は盲目じゃ言うたち、一方的なまっこと未練がましい坊んさんじゃねー・・・"^_^"

お馬さんにしちゃー、折角真面目に働きよったに、いい迷惑じゃったろうに・・・。

結局、二人は再び裁きを受け、純信は再度国外追放となって伊予に追放、お馬さんは名護屋坂(現・須崎市と土佐市の境)以西に追放と成り、ここ須崎に送られ庄屋預かりとなったがじゃそうです。

そんで、お馬さんの監視役になったがが、吉村寅太郎ながやったと。

吉村虎太郎の銅像 2008.04.26

維新の門 - 坂本龍馬脱藩の道 2008.04.25

土佐勤王党に加盟し、坂本龍馬より先に土佐を脱藩し、天誅組を組織し大和義兵し決起したけんど、公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都における政治の中枢から追放した八月十八日の政変で、逆に朝敵とされ幕府軍の討伐を受けて露と散った、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市半平太と共に、土佐の幕末四天王と言われた人なが。

そんで、1年程たった安政4年に、須崎の在の寺崎米之助と言う人と結婚したがじゃそうです。

この時、お馬さんはまだ、17歳ぐらいじゃったと(説明板の説明では)言うき、随分若かったがじゃねー。

4人の子供にも恵まれ、その後、明治18年に一家は東京に移って、明治36年、65歳で亡くなったそうです。

その時、ご主人の寺崎家のお墓があった須崎市池ノ内に分骨され祀られたそうなが。

このお馬堂は昭和29年に、その寺崎家のお墓からお馬さんの霊を迎えて、御祀りしたがが始まりじゃそうです。

オンチャン、須崎の出身じゃけんど、このお堂の事もお馬さんが須崎に追放された事も、つい最近まで知らんかったがです。・・・(^^ゞ

この辺りは、子供の頃や学生時代にゃ、遊びや通学でたつくり廻りよった場所やき、見た記憶があるけんど、当時は説明板も何もなかったき知らんかった。

まっこと、お恥ずかしながら・・・・。

何でも、縁結びのご利益があるとか・・・・。

はよう知っちょったら、お参りしちょったがやに・・・(ToT)/~~~

参考文献:「追跡!純信お馬」駆け落ち百五十年」岩崎善郎著 高知新聞社発行




[ アクセス ]

・土讃線「須崎」駅下車 約880m 徒歩約15分
・土讃線「土佐新荘」駅下車 約1.1km 徒歩約18分
・土讃線「大間」駅下車 約1.4km 徒歩約23分

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