小倉口の戦い - 坂本龍馬、 乙丑丸で戦見物




[ 福岡県北九州市小倉北区・小倉城 ]


慶応元年(1865)年9月、第14代将軍・徳川家茂は大坂城へ入り、当初は長州を5方面から攻め入る第二次長州征討を計画し、萩口からの攻撃を薩摩藩に命じるがですが拒否されるが。

そいて、この第二次長州征伐の発令の裏で、薩摩と長州は慶応2年(1866)1月21日、坂本龍馬と中岡慎太郎が間に入って、薩長同盟を結ぶがです。

結局、幕府は慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊の周防大島への砲撃を皮切りに、13日には芸州口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でと、それぞれ戦闘が開始された事から四境戦争と呼ばれる戦いが始まったがです。

そして、小倉口へは高杉晋作率いる奇兵隊・報国隊・正名団・忠告隊等が出撃するがです。

幕府側の総指揮官は老中・小笠原長行。

6月16日夜、高杉晋作は長州の主力軍艦・丙寅丸に乗り込んで、艦砲射撃に援護されつつ田野浦へと海峡を渡るが。

この時、門司浦に向け、この海峡を渡るもう一隻の船があった。



[ 門司港から見た、馬関海峡 ]

長州が、亀山社中を通じてグラバーから購入した船で、常時は亀山社中が運用し、戦時には長州に返すという約束の船・乙丑丸。

その乙丑丸の船上にゃ、長州の桂小五郎に頼み込み、戦見物をしに乗船しちょった坂本龍馬がおったがです。

と言っても、高杉晋作の指揮の下、船将は萱野覚兵衛(千屋寅之助)を始め石田英吉らの亀山社中隊士らも、長州艦隊として出航しちょるがです。

かくして、田野浦と門司浦の両方から、同時に砲撃を開始し、長州軍は陸兵を上陸させ、瞬く間に田ノ浦・門司を占領し、幕府が渡海のために用意していた和船数百隻を焼き払い、幕府軍の渡海能力を喪失させてしまうがです。

さらに、その混乱に乗じて上陸した長州軍は、幕府の砲台を破壊し、兵糧や弾薬の盗み、民家に放火したかと思うと、嵐のように一旦下関への撤退をするが。

一方、小笠原長行は幕府軍艦・富士山丸を小倉に回航するよう要請、その艦砲射撃で下関を一挙に陥れる作戦に出るがですが、高杉晋作は民間船に大砲を積み、何気なく富士山丸に近付き、猛烈な砲撃を加えると言う陽動作戦が功を成し、富士山丸は戦線離脱するがです。

7月3日、高杉晋作は再び九州へ兵を進め、小倉城攻めの足掛かりを得、7月27日、本格的に小倉を攻めるため長州軍は進軍を開始するがです。

しかし、幕府側の攻防に苦戦するがですが、長州軍は昼夜を問わず攻めかかるが。

7月29日、小笠原長行は将軍・徳川家茂の死を理由に小倉から秘密裏に戦線離脱すると、それを知った幕府側に付いていた九州諸藩の兵も8月1日の朝までに、ことごとく退却し、残された小倉藩軍は城に火を放って逃走するがです。

その後、小倉藩と長州の間に和議が成立し、長い戦いが終わったのは慶応3年(1867)1月の事ながでした。

この戦いのもたらしたものは、幕府側権威の失態と、時流は一気に倒幕へと加速した事ながでした。

長州征討 - Wikipedia
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2 Comments

オンチャン(とさっぽ)  

Re: 海戦見物

> うーん・・なんともいえません。

オンチャンも何とも言えんし、ホローする訳じゃないけんど、明治維新以降の我国が、近代兵器をもって行われた他国の戦闘をつぶさに眼にした時、本当の意味で西洋技術(武器)の脅威を感じた場面じゃったがじゃないろーか。

龍馬も最初は、戦になったら無益な血を流すだけじゃと思うちょったようじゃけんど、小倉口の戦いの前章線で考えが変わたがじゃと思うがです。

龍馬の手紙に「以前、戦争の話をする時に思っていたことは、大変な数の人間が殺されると言うことだった。ところが、非情な激戦になりながら、損失は僅かに十人と言うこともある・・・。」と書いちょります。

龍馬もまた、近代兵器の脅威を感じた一人じゃと思うがです。

2010/07/22 (Thu) 21:51 | REPLY |   

おりがみ  

海戦見物

近代戦の中で戦闘状態の当事者国でない他国の軍事関係者が
海戦をつぶさに見て、自国の軍事にいかすと。
「坂の上の雲」のドラマの中でもありましたね。


うーん・・なんともいえません。

いのちのやり取りをみるのは・・。

2010/07/22 (Thu) 08:51 | EDIT | REPLY |   

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