赤間関 - お龍さんも龍馬と一緒に寓居・自然堂に滞在



[ 山口県下関市唐戸町・中之町 ]


坂本龍馬が土佐を脱藩して、四国から本州に渡ったのは、ここ長州赤間関じゃった。

その後の経緯は省略するが、神戸海軍操練所が閉鎖され薩摩の庇護で鹿児島に渡り、やがて長崎に亀山社中を設立し新たな活動地と選び、ここ赤間関にも拠点を設けた。

坂本龍馬は、この地の本陣伊藤家の一室を借り受け「自然堂(じねんどう)」と称し寓居(仮住まい)としちょったがで、亀山社中の下関支部でもあったがですねー。

慶応2年3月、寺田屋事件の際、お龍の機転で九死に一生を得た坂本龍馬は、西郷隆盛らのすすめで、妻・お龍を伴って霧島に遊び、その後、長崎で二人の生涯で短い期間であったが最も楽しい生活を送り、慶応3年(1868)2月からは、お龍さんも龍馬と一緒にこの地を訪れちょります。

現在は下関市となっちゅうけんど、古くは赤間関と呼ばれており、これを赤馬関とも書いたことから、馬関とも呼ばれるがです。

平安時代にゃ、関門海峡大橋のある辺りは、源平合戦の最後の激戦地となった、平家滅亡の地・壇ノ浦。

江戸時代の初めにゃ、剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で有名な巌流島。

そして幕末にゃ、文久3年(1863)長州が関門海峡航行中のアメリカ商船を砲撃した下関事件が起こり、元治元年(1864)四国艦隊が下関を攻撃した下関戦争、馬関戦争へと繋がり、高杉晋作による奇兵隊の功山寺決起へと繋がる、数々の歴史の舞台となった場所なが。
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment