島浪間義親墓 - 天誅組に参加・先祖は長宗我部一族



[ 高知県高知市長浜 ]


島浪間は天保14年(1843)に島与助重親の二男に生まれ、名は義親、浪馬とも言うが。

本名の義、父の重の名から、長宗我部氏を想像した人も居るろー。

先祖は、長宗我部元親の弟・島弥九郎親益と言う武将じゃそうで、本人も長宗我部四郎とも名乗っちょったがじゃそうながです。

土佐勤王党には一時加盟しちょりますが、武市瑞山らと衝突して連判状から名は削除されたと言われちゅうが。

文久3年(1863)藩命で上京し三条実美の衛士となったけんど、そのまま脱藩して吉村寅太郎らの天誅組大和挙兵に参加し、五條代官所を襲撃し桜井寺を本陣として「五條御政府」樹立を宣言した功により、砲一番隊長に任ぜられちゅう。
 
けんど八月十八日の政変(禁門の変)によって、朝廷より賊軍の烙印を押された天誅組は敗れ、上田宗児ら6人で中山忠光を守衛して大坂の長州藩邸に逃れ、船で長州(三田尻)に渡ったがよ。

その翌年・元治元年(1864)11月にゃ、禁門の変の敗戦後に編成された忠勇隊にも参加しちょります。

慶応元年(1865)2月22日、西国の攘夷運動をさらに活発化させるため、島浪間は井原応輔(佐川町)・千屋金策(葉山村)と岡山出身の岡元太郎の4名で諸国遊説の途中岡山城下に入った折、200人ちかい地元の人らーに盗賊と間違われ襲われて、自決しちょります。

享年23歳。

慶応元年9月9日に坂本龍馬が池蔵太の家族に宛てた手紙の中にも「島与が二男並馬ハ、戦場ニて人を切る事、実に高名なりしが、故ありて先日賊にかこまれ(其かず二百計ばかりなり)はらきりて死たり。」と書かれちょります。

辞世の句「世に出でて 時をもまたで散るものは 我れと嵐の 紅葉なりけり」

こりゃー、悲劇じゃねー。

島浪間の父・島与助重親は高嶋流の砲術家じゃった人で、嘉永元年(1848)、龍馬が14歳の時に砲術の教えを受けちょりますき、知らん間柄じゃないがやき。

西洋流砲術家・徳弘孝蔵に入門したがは、安政6年(1859)の事。

じゃき、父・島与助さんの事も知っちょったき龍馬の手紙に「島与(助)が二男並馬ハ・・・」と書いちゅうがやろー。


冒頭に、先祖は、長宗我部元親の弟・島弥九郎親益と言う武将じゃそうで・・・と書いた島弥九郎親益を調べたら、ちっくと書かれちゅう記事がありました。

抜粋して、ご紹介をしちょきます。

元亀2年(1571年)に『土佐の長宗我部元親の弟、島弥九郎が病気治療のため京都にむかう途中、荒波にはばまれて航行できなくなり、波の静かな那佐湾に停泊した。それをかねてから土佐軍に反感を抱いていた海部の軍が急襲した。そのとき弥九郎は「われ弓馬の家に生まれ、病臥に死するは無念、戦場にて命を落とすは武士の本懐なり。後に名を汚さず討死せよ」と呼び30人余の家来とともに海部軍と激しく戦い、全員戦死した』(『徳島県の歴史散歩』)・・・・・。

山本大著『長宗我部元親』によると、「安芸氏の遺臣が海部氏を頼り、旧主の仇を報いようとして、海部宗寿にすすめ、元親の弟であるため親益(弥九郎)を殺させた」との一説を紹介している。

長宗我部元親は弟の悲報に接して大いに怒り、悲しみ、弟の仇討ちのために阿波攻略の機会を狙っていた。・・・・・

元親は天正3年(1575)末に宍喰に侵入して鈴ヶ峰(395メートル)の砦を攻め、さらに海部城を攻撃して一挙に落城させている。

高知市歴史散歩 187 島弥九郎の悲劇 -高知市広報「あかるいまち」1999年6月号より

この「安芸氏」ちゅうがは、戦国時代に現在の安芸市周辺を支配しちょった土佐の七豪族の一人・安芸国虎の事じゃねー。

敵対しちょった長宗我部元親に滅ぼされたがですが、その後の安芸は土佐に入国した山内一豊の家臣・五藤氏が治め居城を構えた所で、土居廊中・武家屋敷 2010.06.06でも、ご紹介しちょります。
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment