山内容堂宿舎 - 智積院



[ 京都府京都市東山区東瓦町 ]


文久2年(1862)、安政の大獄で謹慎処分を受けちょった山内容堂が禁を解かれ、江戸より大阪に入る。

容堂は、松平春嶽と幕府や朝廷の公武合体へと動き始め、翌・文久三年(1863)に将軍・徳川家茂が入京する事が決まると1月に容堂も入京するがです

しかし、土佐勤王党を初めとする過激な攘夷派の政治行動は収まらず、公武合体を目指しちょった松平春嶽や島津久光らも諦め領地へ帰国するが。

そして、容堂も将軍の攘夷祈願の賀茂行幸には病気と称して参加せず、土佐の帰るがです。

こうした過激攘夷派の行動が、容堂を怒りの頂点にもって行ったがで、やがて青蓮院宮の令旨事件を切欠にして平井収二郎らを捕縛・切腹させ、政変を利用して一気に土佐勤王党の弾圧へと進んで行くが。

ここ智積院は、文久三年(1863)1月に京都に入った容堂が宿舎とした場所ながです。
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