「陽暉楼」跡を探して - 谷干城にも縁のある料亭



[ 高知県高知市玉水町 ]


得月楼のサイトの陽暉楼特集のページに、「陽暉楼・生垣跡地(現在の写真)」が載っちょりましたき、ちょっくら見に行って来たがです。


戦前の得月楼/陽暉楼特集/土佐 高知の料亭・得月楼本店
より写真を拝借。

探したら、あったがやき。


此処は、坂本龍馬の家の西方約1.2kmの鏡川沿いに、得月楼のサイトの写真と同じ石垣が残っちょりました。

「陽暉楼」言うたら、宮尾登美子の小説「陽暉楼」か、映画でご存知の人が大方じゃないろうか。

映画の方は、1983年公開の東映映画で、監督は五社英雄、キャストは池上季実子・浅野温子・緒形拳らが出ちょったがです。

龍馬ファンには、谷干城が「陽暉楼」を改名して「得月楼」と名付けたとして知られちゅうろー。


藩政時代の土佐じゃ、芝居や料亭は厳禁じゃったそうで、明治維新を迎えて禁制が解かれると、鏡川湖畔にお茶屋町・玉水新地ができ、妓楼や芝居小屋では毎夜三味線や鼓の音が鳴り響き、賑わったそうなが。

「陽暉楼」もそのひとつで、明治3年創業で数ある料亭の中でも、初めて文人墨客を集めた大書画会を開催したり、会席料理を提供したりして、風流を好む粋人たちに随分と愛され、連日大繁盛だったと言うがです。

初代・松岡寅八さんと言う人が、天秤棒の行商から身を起こし、一代で築いちゅう。

「陽暉楼」から「「得月楼」と名前を改名したがは、明治11年の事ながです。

西南戦争で熊本城からもんて来た、谷千城の帰国祝いをかねて観月会を開催された時の事。

因みに、西南戦争征韓論で下野した西郷隆盛と新政府軍との戦いで、映画「ラストサムライ」の勝元のモデルは西郷隆盛で、争いは西南戦争をイメージしちょります。

観月会の時、谷干城を案内した画家・橋本小霞と言う人が「天下人の集う楼となったのだから心機一転、谷将軍に名をつけて頂いてはどうか」と持ち出したそうなが。

そんで松岡寅八さんが、谷干城から貰った名が「得月楼」と言うが。

谷干城は、宋の蘇麟の漢詩「近水台先得月 向陽花木易為春」をもとに得月楼としたそうながやき。

明治25年に、松岡寅八さんが「五百人、千人の客を迎えることのできる天下一の店をつくりたい」と、鏡川の河口近くに浦戸湾の景色が一望出きたと言われちゅう新・得月楼を建てるがです。

映画と小説の舞台になった「陽暉楼」は、新・得月楼の方のようじゃけんど、戦争で焼失しちょりますが、2階の大広間は132畳敷じゃったそうぜよ。

現在、はりまや橋傍にある「得月楼」は、元は明治40年に建てられた得月楼中店じゃった料亭です。

この、陽暉楼・生垣跡地も、立派な歴史史蹟の一つじゃと思うがですき。

[参考文献] 「得月楼今昔」 土佐文雄著 - 高知新聞社




[ アクセス ]

・土佐電鉄「上町5丁目」電停から、約300m。
・上町1丁目の坂本龍馬生家跡から、約1.2km。

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