吉村寅太郎氏外天誅組之墓所





[ 京都市東山区清閑寺霊山町・京都霊山護国神社 ]


碑には、吉村寅太郎藤原重郷墓碑と刻まれちょります。

吉村寅太郎は、吉村虎太郎が正しいのでは?

それと藤原重郷とは、本姓が藤原氏で、諱(いみな)が重郷と言う事じゃと。

寺田屋騒動で捕らえられて土佐に送還されるが、再び脱藩し天誅組を結成し大和国で挙兵するが、大和国・吉野の鷲家口で津藩兵に撃たれ戦死。

最後の言葉は「残念!」

奈良県吉野郡東吉野村鷲家に、埋葬されちょります。


天誅組の人々(高札の説明文)

文久3年(1863)8月13日、大和行幸の詔が出るや「攘夷親征の奉迎」と土佐の吉村寅太郎をはじめ、三河刈谷の松本謙三郎・備前の藤本鉄石(津之助)等は、侍従中山忠光を盟主に立て、京都東郊の方広寺に集まり、倒幕のため挙兵に出た。

奈良県五條代官所を襲撃、成功を収めたが、8月18日の政変により事態は急変、行幸は中止となり、直ちに幕府は諸藩に彼らの追討を命じ、応戦するも十津川郷士の離反などから敗走を重ね、秀でた志士を失うこととなる。

吉村寅太郎は、同藩の関崎滄浪らについて文武を学び、その成績極めて優秀にして、他の志士たちより容姿端麗、同志間ではひと際目立つ存在であったといわれる「おくに」という娘との清純な恋愛を通じ、ひととき青年としての喜びを感じた。

9月27日、傷を負い敗走中、大和鷲家口で藤堂藩兵に囲まれ、もはやこれまでと「吉野山風に乱るるもみじ葉はわが打つ太刀の血けむりと見よ」と辞世を残し、銃弾を受け斃る。

享年27歳。

天誅組総裁・松本謙三郎は、18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明、吉野山中での激戦にて敵弾を受け、右眼をも失い自刃した。

過激な攘夷派で知られる公卿中山忠光は、血路を開き大阪から海路長州へと逃れたが、元治元年(1864)11月、潜伏先の豊浦郡田耕村にて暗殺され20歳の短い人生を終える。

天誅組は倒幕の急先鋒であり、憂国の士の集団であったが、彼らの純粋な想いだけを残し短期に壊滅した。

京都霊山護国神社
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