ペリー艦隊函館寄航



[ 北海道函館市弥生町 ]


日本国内に攘夷の嵐が吹き荒れる切欠を作ったのは、嘉永6年(1853)6月3日にペリー率いる黒船が浦賀に現れた事に始まっちゅう。

丁度この頃のアメリカは、産業革命の真っ只中。

そのため、日本沿岸を含み世界中の海で「捕鯨」をしよったがよ。

何のため・・・食べるがじゃのうて、ただ油を搾り取るだけぜよ。

夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、鯨油を使用しよったがやか。

単純に、彼らは太平洋で長期間捕鯨をするために、食べ物や水の確保の必要にせままれ、捕鯨の拠点を作りたかっただよ。

たった4隻の黒船の出現により、上や下への大騒動する様を見て、ペリーはちょっと脅かしたらこっちの物じゃと思うて、大砲を撃ったがよ。

空砲じゃったけんど、あとは蜂の巣を突っついたような大騒ぎ・・・それで充分じゃったがやか。

嘉永7年(1854)1月16日、今度は幕府に圧力をかけるために軍艦7隻を率いて、江戸湾内深くに再渡来するがよ。

結果、幕府は「拒否は戦争となる。もうこりゃー遺憾!」と3月3日に日米和親条約を調印すると、右に倣えと次々にお客さんが現れ、日英和親条約や日露和親条約と締結するせざるをえなくなるが。

幕府は、これらの諸策に反対する尊皇攘夷や一橋派の大名・公卿・志士らを弾圧した安政の大獄へと繋がり、鎖国から一転して箱館・横浜・長崎・新潟・神戸の5港を開港するが。

この黒船来航(襲来)事件から、日本は「幕末」と呼ばれる時代に突入するがやき。

嘉永7年(1854)、日米和親条約が調印するや、ペリーは早速、事前調査のためか函館に寄ちょったがやねー。

アメリカ領事館があった付近と推定されちゅう旧函館区公会堂下の公園に、ペリー提督来航記念碑は建っちょります。

兎に角、幕末から明治維新にかけて、尊皇攘夷派と佐幕派の多くの血が流される事になった切欠は、クジラの油を捕るために食べ物や水の確保を求めてやって来た、このペリーから始まっちゅう。

そいて現在、そのクジラの絶滅を防ぐためと、今度はクジラ捕鯨禁止の「黒船」が襲来しよります。

何とも、皮肉なもんじゃねー(笑)


[ アクセス ]

・函館市電「末広町」下車 徒歩3分。
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