武市瑞山・殉節之碑 - 吉田東洋暗殺への関与は誰も認めず!



[ 高知県高知市本町4丁目 ]


八月十八日の政変とは、文久3年8月18日(1863)に、中川宮朝彦親王や薩摩藩・会津藩などの公武合体派が、それまで攘夷攘夷と声高々に優勢じゃった長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放し実権を掌握した事件なが。

その政変の起こる数日前の8月14日、吉村虎太郎は多くの土佐人が参加した天誅組を結成し、中山忠光を擁して孝明天皇大和行幸を機に天皇を擁して討幕軍を起こす計画を立て、大和五条代官所を襲撃して挙兵するがじゃけんど、京では事前に察知した公武合体派の薩摩・会津藩が天皇行幸を中止させ、クーデターを起こして三条実美ら尊攘派公卿らを追放する画策に出たがです。

この政変で、長州藩は皇居堺町門の警備の任を解かれ京より追放され、吉村虎太郎の率いた天誅組には朝敵として諸藩に征伐令が出され、鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と戦闘となり、天誅組は壊滅し吉村虎太郎らも「朝敵」として戦死しちょりますが、明治維新後の明治10年(1877)に名誉は回復されちょります。

そうした経緯の中で、武市半平太は長州藩を主とする尊皇攘夷派と同調して一気に「倒幕」の流れに組しようとしたがですが、土佐藩からの討幕軍の派兵は得られず政変を迎えてしまうがです。

その裏には、それまでの武市半平太や土佐勤王党の行動を快く思っちゃーせんかった山内容堂や公武派の上士らーが、「青蓮院宮令旨事件」を切欠に、土佐勤王党への締め付けと討幕軍の派兵を許さなかったがです。

結局、八月十八日の政変で佐幕派が盛り返すと山内容堂の謹慎も解かれ、土佐に帰国し藩政を掌握すると、政敵・土佐勤王党の弾圧に乗り出すがです。

最初は島村衛吉や河野万寿弥らが拷問を受けちょったがですが、京で捕縛されて土佐へ送還された岡田以蔵が井上佐一郎暗殺の件で拷問を受けはじめると自白を始め、元治元年(1864年)8月11日に久松喜代馬・村田忠三郎・森田金三郎・岡本次郎が捕えられたとされちょります。

さらなる以蔵の自白を恐れるようになり、よう言われる毒殺計画が練られたと言うが実際には実行されちょりはせんようです。

真相は判らんけんど、以蔵の家族が反対したとか・・・?

しかし、同じように捕まっていた武市半平太の実弟・田内衛吉は拷問に耐えられず自白を始めてしまい、武市半平太が獄外から入手した毒薬天祥丸を服毒し自害するがです。

ただ田内衛吉の死は、自ら死を選んだのか、「飲んで死んでくれ」と言われたのか、それとも毒殺じゃったのか、真相は判らんけんどねー・・・・・。

その後、武市半平太も、慶応元年(1865)5月11日、この南会所のあった地で切腹させられちょります。

が、慶応元年(1865)土佐勤王党への取調べは終った時点でも、党員は最期まで吉田東洋暗殺事件には関与していないと押し通し、武市半平太も他の同志同様に吉田東洋暗殺事件に関しては否認したままじゃったそうです。

要するに吉田東洋暗殺事件への関与は霧中のまま、武市半平太らの罪状は「党与を結び人心煽動し君臣の義を乱した」などの罪状により切腹を申し渡されちょります。

元は反・吉田東洋派の家老たちが土佐勤王党に近付き、東洋暗殺後に実権を握ったのであって、土佐勤王党が実権を握った訳じゃないがですが、攘夷を成さんが為に藩主の入京を画策したり長州藩らの攘夷派と手を組もうとした事は、「君臣の義を乱した」とされてもいたし方が無い事実。

それよりも彼らの取調べに、吉田東洋暗殺の動かぬ証拠を掴み、武市半平太を重罪にして恨みを晴らしたいと手厳しく詮議した、甥・後藤象二郎の姿があったはず。

先の「青蓮院宮令旨事件」で間崎哲馬・平井収二郎・広瀬健太らの罪状が「郷士の身分で藩を動かした(藩主に対する不敬)」と言う理由で切腹させられたのであれば、吉田東洋暗殺の関与を問えなくても武市半平太の罪も同じで、土佐勤王党を結成し責任者の立場で、藩主の意そぐわぬ方向に藩を動かそうとした、藩主に対する不敬罪で切腹させられただけと見て良いのでは。

拷問により体力が衰弱し獄死した島村衛吉以外の他の同志への処分は、永牢処分の河野万寿弥・森田金三郎・山本喜三之進・島村寿之助・島本審次郎・小畑孫次郎・小畑孫三郎らは、土佐勤王党に加わり藩主に対し不敬を働いた罪。

そいて牢内で打ち首になった久松喜代馬・岡本次郎・村田忠三郎・岡田以蔵は、吉田東洋暗殺事件を捜査しよった土佐藩の下横目・井上佐一郎を、身柄拘束のうえ絞殺し、遺体を橋上から道頓堀川へと投げ棄てた事件に関与しちゅう。

もう一人の共犯者・森田金三郎は、最後まで黙秘し生き延びちょりますが。

兎に角、久松喜代馬・岡本次郎・村田忠三郎と岡田以蔵の打ち首の刑は、下士が上士を殺害した事に対する刑罰。

岡田以蔵の刑だけが、最も罪が重く鏡川上流の雁切河原に三日間晒された獄門刑じゃったがは、無宿人・鉄蔵としての処刑じゃったがでしょうかねー。

結局、誰も吉田東洋暗殺に関与したと言う自白証拠が無かったき、岡田以蔵は周知の様に「井上佐一郎暗殺」した咎で処刑されたにすぎん。

つまり「井上佐一郎暗殺」は自白したけんど、暗殺指令を出した黒幕が「武市半平太」じゃったとは誰も喋っちゃーせん。

もし、吉田東洋暗殺の黒幕が武市半平太だと言う名前が出ちょったら、吉田東洋暗殺の真相の詮議は中途半端には終わって無い訳じゃき。

あと一つ、武市半平太の実弟・田内衛吉は拷問に耐えられず自白を始めたそうじゃけんど、何を如何自白したのやら?

仔細に歴史書物を紐解けば真実が書かれちょって、認識不足じゃ馬鹿げた話じゃと笑われるやも知れんけんど、解せんと思うちゅう事を浅はかな知識で書いちょります。

オンチャンの戯言(たわごと)じゃと思ってくだされ。

ご一読ありがとう。


[ 参考 ]

武市瑞山 - Wikipedia
土佐勤王党 - Wikipedia
吉村虎太郎 - Wikipedia
八月十八日の政変 - Wikipedia
武市半平太 切腹(http://www10.ocn.ne.jp/~kenjiro/ijin/zuizan/takechi-4.htm)


[ アクセス ]

・土佐電鉄「大橋通り」電停下車、約200m。


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4 Comments

オンチャン  

Re: おりがみさんへ

長宗我部が四国制覇に乗り出していた頃に侵略された地域で、子供が悪い事をしたりすると「長曾我部が来るぞ」と言う意味と同じような事を言って叱っていたようですねー。

①ソガベが来る・・・
②土佐の兵が来る・・・
③ソガベが首を取りに来る・・・

とかね・・・それだけ長曾我部軍の侵略に怯えたと言う事なんでしょうねー。

2010/05/11 (Tue) 22:49 | REPLY |   

おりがみ  

長曾我部がくるぞー

おっとの母上がたのご実家はもともと商人でしたが下士の身分だったそうです。父上のほうは農民。男子が絶えていて曽祖父の代は養子をとっていたそうです。
小さいころ叱られるとき「長曾我部が来るぞ」といわれたというおっと・・。何時代の話だ?であります。

2010/05/11 (Tue) 22:13 | EDIT | REPLY |   

オンチャン  

Re: タイトルなし

> 政変の中で、藩から弾圧を受ける下士(郷士)は、どのような思いだったのでしょうね。

何時の世も、政権を取った方が優位に歴史を動かしていたのは、周知の事実。

一夜明ければ、立場は逆転して悲劇の主人公達が出来上がるがです。

悔しい思いが一杯じゃったろうねー。

> 土佐のように、上士と下士の差別があった藩は他にあるのでしょうか。

薩摩や長州なども上士(上級武士)と下士(下級武士)の身分制度はあったように思うけんど、土佐はまた特別な状況の元に成り立っちゅきき、比較は難しいのでは・・・。

多くの下士が、山内政権に敵対する長宗我部に属していた郷士たちの出ですかねー。

2010/05/11 (Tue) 13:45 | REPLY |   

みや  

政変の中で、藩から弾圧を受ける下士(郷士)は、どのような思いだったのでしょうね。
土佐のように、上士と下士の差別があった藩は他にあるのでしょうか。

2010/05/11 (Tue) 09:45 | REPLY |   

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