野中婉女宅跡 - 野中兼山の娘







[ 高知県高知市朝倉丙 ]


土佐電鉄・いの線の走る国道脇、朝倉城跡もある山の麓に、野中婉女宅跡はあるがです。

野中婉は、江戸時代初期の土佐藩家老・野中兼山の第四女として生まれちょり、父・兼山が政治的に失脚し罪人扱いされた後、その多くの生涯は悲惨な人生を送ったがです。

野中婉に付いては、野中兼山邸跡の碑 - 本来の跡地に建てられちゃーせん理由は 2009年11月20日で触れちょりますし、カテゴリーの野中兼山には、彼の業績を投稿しちょります。

野中兼山が失脚し亡くなった時は、4歳。

土佐藩は、無慈悲にもそんな幼い子供も含め一族22人を冤罪に連座して、土佐の西方にある宿毛の地に幽閉したがです。

目的は、野中家の男子がすべて途絶えるまで・・・・・すなわち男系を絶やし子孫が誕生しないようにすために。

要するに、野中兼山の子孫が誕生したら、後世に復讐されるかも知れんと言う恐怖感があったがじゃないかと思うがです。

山内一豊が土佐に入国した時も、長宗我部の家臣の女子供を含め虐殺したと言うような前例もあるがですき、やりそうな事じゃと思うが。

兎に角、その期間約40年間も、幽閉されちょったがです。

44歳の時、野中婉は赦免され高知に戻って谷秦山に師事しつつ、此の地で漢方医として余生を過ごしたがです。・・・・・日本で最初の女医ではないかと言われちょりますねー。

藩主から結婚を命じられた時も拒み、生涯独身で通しちょります。

彼女は此の地で65歳で亡くなるまで、女医をしながら亡き父の名誉回復を晴らすべく、波乱に富んだ生涯を送ったそうながです。

婉女が、診察したがは殆ど庶民で、生活困窮者には無料で診察しちょったそうながです。

たまに、上士などが来ても診療を拒絶しちょったそうです。

また、籠で往診の途中に藩主の若君の籠に出会った時、籠を出るように命じられても、籠を下りることなく立ち去ったとか・・・・・。

藩主の権勢にも生涯屈する事もなかったようで、彼女なりの意地を通した「いごっそう」な女性じゃったがです。

因みに「いごっそう」ちゅうがは「へそ曲がり」や「ただの頑固者」のような捕え方で片付けられるがですが、土佐の「いごっそう」は違うき。

正しいことは正しいと言える一本筋の通った、良い意味での気骨のある人の事ながよ。

女性は「はちきん」かなー・・・。


[ アクセス ]

・土佐電鉄・いの線「朝倉神社前」電停下車直ぐ
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2 Comments

オンチャン  

Re: おりがみ さんへ

運命の巡り合わせとは言え、己の性も含めて、全てを与えられた境遇の中でじっと耐える事しかできなかった人生・・・・「残酷」の一言に尽きるねー。

もっともっと知って欲しい、「土佐の人物」の一人ですき。

2010/04/23 (Fri) 00:28 | REPLY |   

おりがみ  

おえんさん

「婉という女」で知りました。
「正妻」「日陰の姉妹」・・もう涙でぐちゃぐっちゃになって読みました。もしも私が同じ目に合わされたら発狂してるかもしれないと・・。

昨年5月と今年の2月末、この近くを通りました。
でも、まだ近寄るだけの度胸がないんです。私は・・・はちきんではないので・・。クスン。

2010/04/22 (Thu) 23:15 | EDIT | REPLY |   

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