鹿持雅澄生誕地・邸跡 - 妻は武市半平太の叔母













[ 高知県高知市福井町 ]


寛政3年(1791)、一代限りの士格を有する白札軽格・柳村尉平維則の長子として、この地に生まれ安政五年(1858年)に68歳で亡くなっちょります。

先祖は応仁の乱をさけて土佐・中村へ入った一条家の従者・飛鳥井雅量とされちょり、新古今集の撰者・雅経、新続古今集の撰者・雅世を父祖に持つ名家じゃそうで、文政2年(1819)土佐藩家老・福岡孝則の推挙により藩校教授官下役となり、その後は藩主一族に国学・歌学を講ずる役を仰せ付かるようになり長く侍講を勤め、弘化3年(1846)に特別の恩恵によって士格に列しちょります。

人生の大半を国学者として万葉集の研究に注ぎ、大著「万葉集古義」は土佐万葉学の集大成であると共に、国学研究の記念碑的存在となっちょります。

奥さんは、文政二年(1819)に郷士・武市半八正久の二女・菊子を妻に迎えちょりますが、天保七年(1836)に亡くなっちょりまして、その後、多くの追慕の歌を詠んじょります。

高知城内にも妻・菊子を読んだ「愛妻の碑」が建っちょりますき、また次回にでもご紹介しますき。

この妻・菊子さんは、武市半平太の叔母さんにあたる人ながです。

邸内に国学塾「古義軒」と称する私塾を開いちょったき、彼を慕って多くの若者達が訪れ、門人には土佐勤王党で活躍する武市半平太・吉村寅太郎や大石弥太郎らを始め、後に坂本龍馬とも関係の深い上士・佐々木高行ら多くの人材を育てちょります。

また後に武市半平太と対立する土佐藩参政・吉田東洋も教えをこうた一人ながです。

それに坂本龍馬の父・八平さんも門人の一人じゃっがでして、もしかしたら龍馬が残した三十数首の詠草(和歌)も、八平さんから受けた影響も大きいがじゃなかろうかと思うちょります。


[ アクセス ]

・坂本家墓所のある丹中山、もしくはJR旭駅より約1.5~6Km.
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