土佐勤皇党血盟者と同志人名の碑 - 龍馬、九番目に参加





[ 高知県須崎市浦ノ内須ノ浦 ]


横波黒潮ラインの武市瑞山像の裏にある「土佐勤皇党血盟者と同志人名」の碑ながです。

その九番目に「坂本龍馬」の名が刻まれちょりますが、土佐では加盟第1号なが。

土佐勤皇党は、文久元年(1861年)江戸におった武市半平太が結成したがでして、最終的には192名が参加したがですが、メンバーのほとんどは郷士、足軽、庄屋といった下士層で構成されちょリました。


オンチャンは、個人的には先週の「龍馬伝」を最後に、もう見るがを止めましたけんど、NHKの「龍馬伝」のオフィシャルサイトの”あらすじ”を見て、関係のありそうなネタを記載するようにしますき。

今回は、「土佐勤皇党」がメインのようじゃき、「土佐勤皇党血盟者と同志人名」の碑のご紹介にしたがです。

ただドラマの方は、”あらすじ”を見る限り実際に起こった事と時系列が違うちょりますき書いちょきます。

文久元年(1861)3月に「永福寺門前事件(井口事件)」が起きるがですが、ドラマじゃ池田虎之進を岡田以蔵らが武市道場でかくまうと書かれちょったけんど、こりゃーウソじゃろー。

岡田以蔵は、前の年の万延元年(1860年)に武市半平太に同行して中国、九州へ武術修行に出ちゅうけんど、その途中、以蔵だけ豊後岡藩にとどまり堀加持右衛門の道場で直指流剣術を学んじょり、翌・文久元年3月まで修行をおこない、その後江戸に入ったと記憶しちゅうがですき、「永福寺門前事件(井口事件)」の際には土佐には居らんかったはず。

もし記憶ちがいじゃったら、誰ぞ、ご指摘下さい。

その後の、同年・文久元年(1861年)8月に、江戸滞在中だった武市半平太によって「土佐勤皇党」は結成せれちゅうがです。
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10 Comments

オンチャン  

Re: おりがみ さんへ

> 御推察どおりの展開で、仮想ドラマの主人公は隣のビルに逃れて命拾いするというラストでした。

それしかないじゃろーねー。

押し寄せてくる津波と時間の戦いになってくるがですき、大勢の集まる避難場所に逃げるがじゃのうて、高台やなるべく高いビルに非難することが先決じゃろーと思います。

行政も今の非難の仕方について、改めて最善な非難方法を検討するべきじゃないろーかねー。

> 「あそこは!!あの通りは!!」みたいな感じでおっとは「仮想とは言えたまらんなぁ」と母親のことをおもってか心配そうな表情だったです。

放送を見よった皆さんは、おそらく全員同じような思いじゃったろーねー。

2010/03/17 (Wed) 22:21 | REPLY |   

おりがみ  

避難

御推察どおりの展開で、仮想ドラマの主人公は隣のビルに逃れて命拾いするというラストでした。
「あそこは!!あの通りは!!」みたいな感じでおっとは「仮想とは言えたまらんなぁ」と母親のことをおもってか心配そうな表情だったです。

2010/03/17 (Wed) 09:49 | EDIT | REPLY |   

オンチャン  

Re:キバシガラス さんへ

ありがとう。

此方こそ、よろしく!

2010/03/16 (Tue) 06:08 | REPLY |   

キバシガラス  

はじめまして (^^)

はじめまして(^^)
こちらは,龍馬さんも通られたであろう
香川県は丸亀から情報発信中のFC2新参者でございます。

高知県の方のブログは 皆さん元気ですねぇ。

当方のブログの内容が,土佐市宇佐港さんと
間接的に繋がっておりましたので,
ご挨拶申し上げます。

今後ともよろしくお願いいたします。

2010/03/16 (Tue) 00:42 | REPLY |   

オンチャン  

Re: おりがみ さんへ

残念!見ませんでした。

無計画に浦戸湾内が埋め立てられキャパシティーが無くなって来ている湾内に、6mの津波が押し寄せたら、高知市内全域がほぼ水没じゃろーねー。

まず、浦戸湾内沿岸は堤防を越えた海水が家々を飲み込み、鏡川や国分川、江の口川等を津波が遡り、やがて市内全域を水没させるがじゃないかと想像しちょります。

と言う事は、場所によっちゃー定められた「防災避難場所」は、かえって危険じゃろー。

何処に逃げたらエイがじゃろー?

兎に角、3階建て以上のビルに登るがが無難かも・・・・・。

是非、再放送をしてもうて、シュミレーションを教訓にしたいねー。

2010/03/15 (Mon) 23:03 | REPLY |   

おりがみ  

地震&津波

昨晩は大河ドラマ(いちおう見てます)のあとの「大地震」の番組が衝撃でした。
大地震が起きたあと、津波が高知の市街地を襲うという仮想ドラマでした。
おんちゃんさんが教えてくださった上士と下士の済む境界線さえ飲み込むような6メートルの津波・・。こわかった。



2010/03/15 (Mon) 12:05 | EDIT | REPLY |   

オンチャン  

Re: みや さんへ

>長宗我部の家臣と山内の家臣がひとつになるのは簡単ではないですね。

無理じゃったろーねー。

下士が上士になるすべは無く、藩の政治に参加する事自体ありえんかった。

それに、以前「境目 - 身分の境目 (02/25)」でも書いたけんど、 下士と上士の住居区割りが出来ちょり郭中には住むことが出来んかったし、雨の日にも下駄を履くことは許されず、夏に日傘を差すこともできんかったそうです。

その上、町人と同様に斬り捨て御免の対象とされちょったがでして、支配者意識の高い上士からしたら、下士は虫けら同然の扱いじゃったがですと。

そんな訳じゃき、長宗我部の家臣と山内の家臣の関係は、民族対立と同様の火種じゃったがです。

仲良ーは出来んよねー。

仮に、下士が出世したとしたら、上士は黙っちょらんかったろーき。

2010/03/14 (Sun) 22:53 | REPLY |   

みや  

いつもありがとうございます。
長宗我部の家臣と山内の家臣がひとつになるのは簡単ではないですね。

2010/03/14 (Sun) 22:32 | REPLY |   

オンチャン  

Re: みや さんへ

> 吉田東洋が、龍馬の才覚を見込んで、お小姓組でしたか、上士に取り立ててやると言いました。郷士を上士に取り立てるということは、かなり先進的な人事だと思ったのですが、実際にはそういう話はあったのでしょうか?

岩崎弥太朗のように、仮に何らかの役職に付ける事は出来たとしても、上士に取り立てるちゅうことは有得んかったと違うろーかねー。

> 吉田東洋という人物、龍馬伝の中で見ると、かなり進歩的な人のように思いました。

進歩人と言うか、改革者ではあったろーねー。

富国強兵論などを主張した藩政改革を行ない、身分階級の整理や世襲制度の撤廃などの身分制度改革に始まり、藩内の財政改革、文武制度改革などの改革や、身分の低い者でも才能があれば藩の重要な要職に就けるよう人材登用改革などが、結果的に保守派の反感を生んだがです。

武市半平太が、幾等、土佐一国を尊皇攘夷で固めるべきじゃと言うても、土佐藩そのものが徳川に恩恵のある藩じゃったきねー。

薩摩や長州のように、関ヶ原で負けて徳川憎しと言う感情も無かったき、元々の同じ土台に乗ると言う事自体が無茶じゃったと思う。

結局、「尊皇攘夷」と言う言葉に振り回され、自分の思うように藩論を統一できないと焦った「吉田東洋暗殺」の裏には、同じように吉田東洋憎しと思うちょった保守派の上士の思惑もあったき出来た事じゃろーねー。

残念なのは、武市半平太が事を急ぎすぎて、吉田東洋を暗殺したこと。

その結果が、その後の土佐勤皇党の悲惨な運命にいたるがでしょう。

2010/03/14 (Sun) 22:22 | REPLY |   

みや  

こんばんは。

今回の龍馬伝は、お察しの通り、土佐勤王党の結成が主たる内容でした。
その前段、吉田東洋が、龍馬の才覚を見込んで、お小姓組でしたか、上士に取り立ててやると言いました。郷士を上士に取り立てるということは、かなり先進的な人事だと思ったのですが、実際にはそういう話はあったのでしょうか?

結局、その話は、勤王党結成でほごになりそうです。
吉田東洋という人物、龍馬伝の中で見ると、かなり進歩的な人のように思いました。

2010/03/14 (Sun) 21:01 | REPLY |   

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