長岡謙吉邸跡 - 海援隊の文司として活躍

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[ 高知県高知市南はりまや町2丁目 ]


写真の「得月楼駐車場」の辺りが、長岡謙吉邸跡とされちょります。

医師・今井孝順の息子として生まれ、河田小龍にも蘭学を学び、その後に家業の医師を継ぐために、長崎でシーボルトから医学を学ぶがですが、藩からキリスト教じゃないかと言う疑いを受け帰国を命じられ、処罰として長岡郡鹿児村への蟄居を命じられちゅう。

その謫居生活を送りゆう時に、「長岡謙吉」と改名したがです。

慶応元年頃に土佐を脱藩すると、坂本龍馬と合流し「海援隊」に加わり、文司として海援隊の通信文書の作成や事務処理のほとんどをまかされちょったと言う事ながです。

有名な「船中八策」も、長崎から藩船・夕顔丸に坂本龍馬と後藤象二郎らと海援隊書司として同行した際に、龍馬が語ったものを清書しちょり、「大政奉還建白書」の本書起草文を書いたのも長岡謙吉とされちょります。

慶応3年11月15日に坂本龍馬が暗殺された後、指導者を失うた海援隊は分裂をはじめるがですが、長岡謙吉は数名を率いて土佐藩大監察・小南五郎右衛門から海援隊隊長を命じられ二代目「海援隊隊長」になるけんど、翌年「海援隊」は解散となるが。

その後の海援隊は、土佐藩・後藤象二郎によって土佐商会となり、やがては岩崎弥太郎が引継ぎ、現在の「三菱」へと発展していくがよ。

全ては坂本龍馬が率いた「海援隊」と言う貿易結社から始まった物で、「三菱」の礎は「坂本龍馬に在りき」と言っても過言じゃないきねー。

その海援隊が活躍しちょった期間は、1865~1868年の僅か3年間ぜよ。

もっと長い期間活躍しちょったようなイメージじゃけんどねー。

長岡謙吉は維新後は「三河県知事」や「大蔵省」・「工部省」で活躍したようじゃけんど、この人も39歳と言う若さで亡くなっちょります。


ここ長岡謙吉邸跡にも、名残を留めるものとてなく、碑も何もないがです。

幕末に活躍した、「土佐の偉人」として敬われてしかるべき人物の一人じゃと思うがですが、どうも行政は無関心。

ここに限らず、他の史蹟にしても標識も保存もいい加減で、志士達の墓石にしても何処にあるか判らんような状態が多いき。

それだけ、重要視しちゃーせんがですろー。

例え、記念碑でもあれば、かって其処には誰々の○○が在ったという証となり、立派な本物の史蹟になる。

幾ら箱物を建てて、作り物を並べ飾っても、本物の価値観には勝てんき。

観光客が求めちゅうがは、本物の史蹟探しじゃと思うけんどねー。

そう言う他県にない観光史蹟巡り構想が出来るがが、本県にしか作れない観光行政の強みじゃと思うけんど、現実には「郷士如きの史蹟や墓石等」は、ことさら厄介なお荷物程度にしか思うちゃーせんがですろうー。

因みに高知市以外の地域の、維新関係の史蹟や墓石等は、案外大事に保護され地域民にも敬われちゅう事を付け加えちょきます。

やがてはこの場所も、地元民にさえも忘れ去られる運命ながですき、と言うよりも殆どの人がもう知らんが。

知っちゅうがは、殆どが県内外の「龍馬ファン」だけじゃないがやろーか。


[ アクセス ]

・はりまや橋交差点より、東に約220m
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