浦戸砲台場跡 - サン・フェリぺ号漂着事件に繋がる

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高知県高知市浦戸・桂浜


桂浜の駐車場傍の、土佐闘犬センターの左の石段から坂本龍馬像に登って行く途中の右側に、写真のような石垣が残っちょります。

これは説明板にあるように、「浦戸砲台場跡」の石垣の名残ながです。

元は、寛永15年(1638)土佐藩内4ヶ所に外国船来航を監視する為の遠見番所が設置されちょった場所の一つで、万治年間(1658年~1660年)には灯明台(現在風に言うたら”灯台”じゃねー)が設置されちょった所です。

その後、19世紀になって長年の鎖国にも関わらずに、日本近海へのロシアやアメリカ等からの外国船の出没に対処するため、海岸防衛として土佐藩は文化5年(1808)に大砲を配備したと言うように記されちょるがです。

そもそも、寛永年間に此処に遠見番所が設けられた切欠は、「サン・フェリぺ号漂着事件」に端を発しちゅうがじゃと思うがです。

「サン・フェリぺ号漂着事件」ちゅうがは、長宗我部元親の時代の慶長元年(1596)の8月に、イスパ二ア(スペイン)船・サン・フェリぺ号が浦戸で座礁・大破し、乗組員を上陸させ湾内に浮かんだ荷物は収容したそうながです。

場所は、地図を見ると浦戸湾の西側・御畳瀬の北側に「クルス」と記された岩礁があるがでして、クルスとはポルトガル語で「十字架」を意味する言葉じゃき、ここがサン・フェリぺ号の座礁した場所じゃないかと言われちょります。

船は、フィリピンからメキシコに向かう途中で、修道士7人を含む約230人が乗船しちょったと。

異国船漂着の報を受けた豊臣秀吉は、奉行・増田長盛を浦戸に派遣し、長宗我部元親と積荷を検査するのですが、この時発見した海図の説明を求めた所、航海士は「イスパ二ア人は全世界と貿易を行なっているが、虐待されたり攻撃されたりしたら力ずくで、その国を奪う。そのためにまず宣教師を送り、キリスト教を広めて行く」と答えたと。

脅威を感じた2人は、「イスパ二アは、キリスト教を広めて人心を見方に付けた後、軍隊を送ってきて日本を征服するために来た」として、乗組員の所持金や積み荷等を没収し、秀吉の下に送ったがです。

天正15年(1587)には、既に豊臣秀吉は九州においてキリスト教の禁止を命じちょったがですが、この事件が発端で「キリスト教」は布教によって日本を侵略する油断出来ん宗教じゃとして、キリシタンの弾圧に拍車がかかって行くがです。

秀吉は石田三成に命じ、京都に住むキリスト信徒全員を捕縛して処刑するよう命じたがですが、外国人宣教師・修道士の6名と日本人修道士と信者18名、それに長崎に護送される途中で新たに捕縛した2名の、計26名が殉教の列に加わったがです。

そいて慶長元年12月19日(1596)長崎の西坂の丘で十字架に掛けられたがです。

その長崎の西坂の丘の殉教の地には、「日本二十六聖人殉教記念碑」が建っちょりますき、長崎へ旅行に行った事のある人は、一度は見た事があるがじゃないがやろうかねー。

そのそもそもの発端は、ここ桂浜の湾内・浦戸からですき。

その後は、歴史で勉強したと思うけんど徳川幕府は、鎖国へと進んで行くがです。

坂本龍馬も江戸留学時の嘉永6年(1853)には、黒船(ペリー艦隊)が浦賀に来た時、土佐藩兵として品川海岸で警備に付いちょったと言われちょります。


[ アクセス ]

・はりまや橋電停から徒歩すぐのバス停「南はりまや橋」から、県交バス桂浜行きで30分
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