池内蔵太邸跡 - ワイルウェフ号で遭難

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[ 高知県高知市西町  ]


池内蔵太(いけ くらた)は、郷士・池才右衛門定穀の長男として生まれちょります。

武市半平太の土佐勤王党の結成にも尽力しちょり、彼もまた土佐藩の保守的な藩論に失望して脱藩した一人ながです。

脱藩後は、長州の尊皇攘夷運動に参加し、長州軍の遊撃隊参謀となり”馬関”での外国船砲撃では遊撃隊参謀として指揮したり、その後、吉村虎太郎らが天誅組を結成すると、天誅組にも参加するがじゃけんど、天誅組が壊滅すると離脱し、元治元年7月19日の禁門の変では長州軍の忠勇隊員として活躍しちょります。

坂本龍馬が、薩長同盟締結に向けて奔走しゆう時、龍馬や中岡慎太郎らに賛同し、同盟締結に向けても尽力し、その後、坂本龍馬の誘いで亀山社中に加わるようになったがです。

そいて京都にて薩長同盟が締結した翌日、坂本龍馬は寺田屋にて伏見奉行所の襲撃を受けて負傷し、西郷隆盛の誘いで静養を兼ねてお龍さんと一緒に鹿児島へ旅立つがですが、その龍馬が鹿児島で静養中に、悲劇が齎せられるがです。

池内蔵太らは、慶応2年5月2日(1866)の早朝、亀山社中所有の帆船・ワイルウェフ号の命名式に向かうために、長崎から鹿児島に出航したがですが、船が五島列島の中通島潮合崎沖で暴風雨(台風)に遭遇し、ワイルウェフ号と共に遭難したがです。

享年26歳。

龍馬は池内蔵太の遭難を知り、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに・・・・・」と嘆き悲しんだと言われちょります。

池内蔵太ら遭難した同志の冥福を祈るため、坂本龍馬は亀山社中(海援隊)の同志と共に、五島列島中通島有川へ行き、墓を立て冥福を祈ったそうです。 

現在、池内蔵太邸跡とされちょるのは、この辺りじゃと言う事で、写真のような案内板が建っちゅうだけながです。


[ アクセス ]

・土佐電鉄にて「上町2丁目」電停下車、徒歩約350m。

・土佐電鉄にて「上町4丁目」電停下車、徒歩約300m。
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