啄木の父・石川一禎終焉の地碑

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[ 高知県高知市北本町2丁目  ]


啄木は、1912年(明治45)に亡くなったが、一禎はその前から次女トラの夫で鉄道官吏山本千三郎のもとに身を寄せており、その転勤に従って各地を廻った。

山本は、1924年(大正13)11月、高知駅開業に当たって、高知出張所長として赴任したので、一禎も山本夫妻、養子の勝重とともに高知に来て、所長官舎に住んだ。

3年後の1927年(昭和2)2月20日、この官舎で78歳の生涯を閉じた。

かつての所長官舎の場所は、現在高い鉄塔の建っているところの南側と碑に書かれているが、元国鉄職員によれば鉄塔の東側ともいう。

一禎の没後、一禎作の3800余首の和歌を収録した“みだれ芦”と題する歌稿が見つかり、函館の遺族の元に送られたといわれる。

[ 土佐観光ガイドボランティア協会 五台山・東部地区ガイドブック ]より抜粋

尚、土佐観光ガイドボランティア協会は、現在、龍馬の生まれたまち記念館内にあります。


どれだけの県民や市民が知っちょったか知らんけんど、昔はひっそりと木製の標柱が一本建っちょったそうで、高知駅周辺の整備が終わって、記念碑も新しく造り直されたがです。

オンチャンも、今年(2009)高知新聞で「啄木父子の歌碑」の記事を見て、その存在を知ったがです。

そいて、序幕式前に行って撮って来たがが、上の写真ながです。

「よく怒る人にてありしわが父の 日ごろ怒らず 怒れと思ふ」 啄木

「寒むけれと衣かるべき方もなし かゝり小舟に旅ねせし夜は」 一禎

と碑には刻まれちょります。

碑は、当時の「高知県歌人協会」所属の歌人有志が資金を出し合うて建てられちゅうがです。

折角新しくなった記念碑じゃき、人々の視線にも入らず忘れ去られ無い事を祈っちょります。


今回もオンチャンの愚痴をチックと。

高知市内の碑の建立には、高知県や高知市の関わったもの以外に、こうして地元民や市民団体の手による碑も少なからず。

はりまや橋観光バスターミナルの近くにある「河田小龍生誕地(墨雲洞跡)の碑」の立派な碑も、”河田小龍生誕地 墨雲洞の碑を建立する会”が建てた物で、高知県や高知市の名前すらない。

”河田小龍を土佐の偉人とも思うて無い”と思われてもしょうがないねー。

兎に角、市内各所にある様々な碑を見よると、建立者名に高知県や高知市の名が刻まれた碑が誰のどんな碑にだけに関わっているかが判るし、碑そのものの出来具合を見ても行政の力の入れ具合もよう見えてくるがです。


[ アクセス ]

・JR高知駅南口ロータリー、南東にある横断歩道橋上り口傍
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