河田小龍塾跡付近(推定・水天宮)

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[ 月ノ瀬橋を挟んで、上町2丁目から見た水天宮方面  ]

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[ 水天宮の北側  ]

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[ 水天宮の南側  ]

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[ 水天宮  ]


[ 高知県高知市上町3丁目  ]


河田小龍塾跡とされちゅうのは水天宮辺りじゃと推定されちゅうだけで、此処だと言う定かな場所は確定されちゃーせんがです。

写真の水天宮の西辺りじゃとか、もう一本北側の通りの西側辺りじゃとか確たる証拠はないがです。

此処では、取合えず水天宮周辺の写真を載せちょります。

河田小龍は、安政元(1854)年に発生した安政の大地震で家を失のうて、此処に移り住んできたがです。

帰国しちょった坂本龍馬は、世界情勢等を聞くために此処を訪れちゅうがです。

この時の状況は、河田小龍の「藤陰略話」と言う書物に書き残されちょるそうです。

因みにこの「藤陰略話」の「藤陰」とは近藤長次郎の雅号からきちょって、明治維新後に長次郎に対する贈位調査の際に、長次郎の履歴等を答えた回顧録で、その中に小龍と龍馬のかかわりも記されちゅうがです。

省略・・・・・・・

後日、再び龍馬は小龍のもとを訪れて問うた。

「船且器械は金策すれば得べけれども、其用に適すべき同志無くんば仕方なし。吾甚だ此に苦しめり。何か工夫のあるべきや」と尋ねた。

それに対し小龍は「従来俸禄に飽たる人は志なし。下等人民秀才の人にして、志あれども業に就べき資力なく、手を拱し慨歎せる者少からず。それ等を用いなば多少の人員もなきにあらざるべし」と答えた。

(小龍の答えた返答は、現在でもそのまんまあてはまるねー。)

龍馬も承諾し、「如何にも同意せり。其人を造ることは君之を任し玉へ、吾は是より船を得を専らにして、傍ら其人も同じく謀るべし。最早如此約せし上は、対面は数度に及まじ、君は内に居て人を造り、僕は外に居て船を得べし」言って小龍と別れた、と記されちゅう。

この時の小龍との交流が、やがては海援隊へと繋がっちゅうがでしょうねー。




[ アクセス ]

・土電「上町二丁目」電停下車、徒歩約3~5分
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