山内大膳亮邸跡 - 大膳町の由来

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[ 高知県高知市大膳町 ]


かって此処には元・土佐中村藩三万石の最後の領主じゃった「山内大膳亮」の居宅があったがでして、そんで此処を「大膳様町」と呼びよったと。

それが今でも、「大膳町」と言う地名で残っちゅうがです。

平成の大合併でこうした何がしかの歴史に由来するような「地名」が、全国レベルで”こじゃんと”のうなった。

人間が子孫を残していく最大の役目は「DNA」を受け継ぐ事じゃないかと、どっかで見聞きしたような記憶があるけんど、こうした地名などもずっと守り残して行く事も、歴史を受け継ぐちゅう事じゃと思うけんどねー。


ところで「山内大膳亮」ちゅう人は土佐藩・二代藩主「山内忠義」の二男「忠直」の子で「豊明」ちゅうがです。

分家の中村山内家三万石の2代藩主じゃった兄「豊定」が若死にして、その息子も幼少じゃったき、養子として後を継ぎ藩主になったがです。

時の将軍は、第5代・徳川綱吉のじゃったがですが、よほど気に入られたようで元禄2年4月(1689年)にゃ「奥詰衆」となり、同年5月には本来外様大名にゃ到底ありえんような「若年寄」に任じられるという異例の抜擢を受け、さらには「老中」にまで抜擢しようとしたそうながです。

ところが等の「山内豊明」は、何を思ったか”病気”を理由に辞退したがです。

折角取上げてやろうと思うちょった「徳川綱吉」は、面子を潰されたこともあり大激怒。

結局、不敬罪として江戸屋敷没収の上、謹慎を命じられるがですが、謹慎が解けた後も全所領を没収されて改易され、身柄は青山氏に預けられることとなったと。

その後、土佐に戻んて来て棲んだがが小高坂の一角じゃったがです。

「若年寄」を辞退した理由は、藩財政が苦しい状態なのにさらなる出費を恐れたためと言われちゅうがです。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


この石碑のある通りは、再々通る道じゃけんど、これまでまったく気が付かんがじゃったがです。

駐車場の一角にポツンと忘れられたように、建つちょります。

石碑以外なんもないき、気が付かいで当たり前。

なんとも寂しい気がしたぜよ。


[ アクセス ]
・土佐電鉄「上町2丁目」電停下車、北に約300m
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