顔を覗かせた遺構 - 旧・柳原沈下橋

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[ 高知県高知市鷹匠町2丁目 ]


一寸前の大潮の日に、鏡川に昔あった沈下橋の遺構が、水面から顔を出しちょりました。

二枚目の説明板にも書かれちゅうように、昭和52年(1977)までは、日本最古と言われる旧・柳原沈下橋があったがです。

”2008-10-02 [史跡] 記念碑 我が国最古の沈下橋跡 - 鏡川”でも書いたけんど、再度、説明板の内容を記載しちょきます。


昭和50年の台風5.6号、昭和51年の台風17号の連年災で被災し、河川改修の一環で昭和52年(1977年)に撤去された旧柳原橋(沈下橋)は、昭和2年(1927年)6月1日、当時西本直太郎高知市長のもとで高知県土木課及び、内務省への度重なる説得により架橋された、我が国最古の沈下橋である。

当時の高知市土木課吉岡吾一技師(当時20歳代、熊本工業高校出身で最も早くコンクリート造の橋梁を建設)により、中国西湖にかかる石造りの沈下橋を参考にコンクリート造の沈下橋架橋を発案され、昭和の百々越前たる清水真澄土木課長が決断し、架橋に至る。


「百々越前」さんと言う人も”2009-04-16 [土佐の偉人] その他 百々越前 - 高知城の築城奉行”でご紹介済じゃけんど、高知城の築城に携わった人で、発案者の「吉岡吾一技師」さんや、架橋を決断した「清水真澄土木課長」さんも「百々」さんに匹敵するような優れた土木技師さんじゃったががです。

こうして、時たま顔を覗かせる遺構を見ると、考えさせられる面もあるがです。

昭和2年(1927年)に架けられ、昭和50年と昭和51年の台風で被害が出たとは言え、偶々50年間に続けて2度。

またこの先、50年に2度起こりえるとは、「神のみぞ知る」じゃけんど、架橋され今日まで河川を取り巻く環境は大きく変化しちゅうはず。

昭和2年当時に比べたら、彼方此方コンクリートとアスファルトで固められ、むき出しの地肌が減少した事は、保水能力が無くなって降った雨が短時間で河川に流れ込み、洪水と言う災害を生み出す確立も増大しちゅう。

賛否両論はあって当たり前じゃけんど、災害が起こったき、目障りなもんは「破壊」すると言う行為は、バカの一つ覚えの愚かな行為じゃないがですろうか。

現実は、”災害”を理由に、「旧・柳原沈下橋」も仁淀川の「八田沈下橋」も破壊された。

もっと自然と仲よう付き合って、コンクリートとアスファルトでガチガチに固めちゅう治水事業を見直すべきじゃないがですろうか。

「破壊」と言う行為しか思いつかない有様じゃと、「百々越前」さんや、「清水真澄土木課長」さん「吉岡吾一技師」さんのような優れた逸材が居らん証拠じゃねー。

これまでの愚かな行政のおかげで、歴史を見続けて来た数々の「県民遺産」が、土佐の大地から消え続けちょるのも事実じゃきねー。

特に税金を投入して造った歴史遺産等に値するような物を、権力と言う大義名分を楯に破壊するちゅう事は、県民に対する「大罪」ですろう。

そうじゃ無いと言うのであれば、こんな「我が国最古の沈下橋跡」等と言う楯看板は必要ないし、川の中に残った遺構も撤去するのが一番ですき。

破壊され失った物は、同じような物は造れても、本物は二度と元には戻らん!

史蹟や遺跡など「歴史や文化」遺産は、県民一人一人の大事な財産ぜよ。
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