「南北朝」所縁の地 - 大高坂松王丸の記念碑

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[ 高知県高知市本町5丁目・高知市役所入口広場 ]


この地はかって、鎌倉時代の後、1336年(延元元年/建武3年)に「足利尊氏」による「光明天皇」の”践祚”、「後醍醐天皇」の”吉野転居”により”天皇王朝”が分裂して、1392年(元中9年/明徳3年)に両王朝が合一するまでの「南北朝時代」の一時期、激戦のあった地ながです。

オンチャンもかって、吉川英治の「私本太平記」をむさぼり読んだがですが、「後醍醐天皇」や「新田義貞」・「楠正成」、「足利尊氏」らが争った時代の話ながです。

その舞台の一つが、現在の「高知城」で、元は「大高坂城」と言い城主は「大高坂松王丸」じゃったがです。

「長宗我部元親」が”岡豊城”から本拠地を”浦土城”に移る前、一度「高知城」にも移っちょったけんど当時の「高知城」周辺は湿地帯で水難が多かったき、数年で”浦戸”に移ったがです。

その後、山内一豊が土佐に入国して、「百々越前守(以前・土佐の偉人で紹介)」を築城奉行に任じて出来上がったがが、現在の「高知城」ながです。

その元になった”城郭”での出来事なが。

そもそもは鎌倉時代末にあたる寛元4年(1246年)、「後嵯峨天皇」の退位後に天皇家は皇位継承を巡って”大覚寺統”と”持明院統”に分裂してしまって、そこに鎌倉幕府が仲介に入り大覚寺統と持明院統が交互に皇位につく事(両統迭立)が取り決められたがです。

1333(元弘3年/正慶2年)、”大覚寺統”の「後醍醐天皇」の時、全国の武士に討幕の綸旨を発し、これに応えた”足利尊氏”や”新田義貞”らの働きで”鎌倉幕府”は滅び、”建武の新政”と呼ばれる親政がはじまったがです。

ところが政局の混乱が続き、また恩賞の不公平により武士階級の支持を得ることが出来んようになって、足利尊氏が反旗を翻すがです。

1338年、「後醍醐天皇」側に付いて戦こうちょった「新田義貞」・「楠木正成」が湊川の戦いで敗れ、足利f尊氏は”持明院統”の「光明天皇」を京都に擁立して”北朝”を興すがです。

結局、「後醍醐天皇」は京都を脱出して奈良の吉野へ逃れ、「北朝に渡した神器は贋物であり光明天皇の皇位は正統ではない」と主張して”吉野”に「南朝」を開き、此処から”南北朝”が始まるがです。

「後醍醐天皇」の息子らーは西日本に散らばり、各地で”南朝再建”への足掛かりをつかもうとします。

九州へ下向した征西将軍宮「懐良親王」は九州の豪族「菊池一族」と共に暴れ回るがです。

その”懐良親王”の兄「花園宮」が、”土佐”へ下向して来て、「大高坂松王丸」らとともに、北朝方の「細川顕氏」と激戦を繰り返すがです。

その時の土佐「南朝方」の拠点になったがが、現在の「高知城」のある山で、4年間激戦を繰り返したけんど、1340年1月24-25日の激戦に破れて、「大高坂城」は”陥落”し、「大高坂松王丸」は戦死し、土佐で南北朝両軍による戦闘に終止符が打たれたがです。

1829年この近辺で戦死者を供養する古碑が出土し、その近くに祠が作られ「大高坂神社」として祀られちょったけんど、戦災により焼失し、その後、久万の松熊神社に遷座したと言う事ながです。


大高坂松王丸の記念碑の裏面

大高坂松王丸は南朝の臣大高坂の領主であった。延元三年近江灘の難風から逃れた後醍醐天皇の皇子花園宮満良親王を迎え奉じ、南朝のために策したが時運至らず翌々興国二年大高坂城陥り、花園宮は西国に走り松王丸は戦死した。

第二次大戦終結前まで市役所構内に大公孫樹あり、その樹下に小祠があって松王丸の墓なりという口碑あり、昭和の世正四位を贈られたのを機会にその傍らに大高坂神社が建てられたが戦災で焼失し後久万の松熊神社内に遷座した。市庁舎改築にあたりこの遺跡を表するためにこの碑を建つ


出典:高知県「大高坂家マップ」

出典:南北朝時代 (日本) - Wikipedia


[ アクセス ]
・土佐電鉄「県庁市役所前」電停下車・徒歩直ぐ




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