田んぼの害虫の駆除 - 実盛神社

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[ 高知県南国市久枝 ]


「高知龍馬空港」の南側の滑走路脇にある神社ながです。

ただ、鳥居の扁額に「実盛神社」とあるだけで、由来も何んも書かれちゃーせんき、よう判らんけんど、
多分「斉藤別当実盛」の事じゃろうと思うがです。


「斉藤別当実盛」と言う人は、越前国の生まれで祖父の実遠以来、源氏と主従関係があったがです。

1155年に、源氏の棟領「源義朝」と、弟の「源義賢」が武蔵国をめぐって対立し、「義賢」が討死にした時に、遺児「駒王丸」を実盛がかくまい、後に信州の豪族に養育を頼むがです。

この「駒王丸」が、後の「木曽義仲」です。

1159年の「平治の乱」の時、坂東武士として「源義朝」に従い”平家”と戦うがですが、源氏は破れ国に戻った実盛は、それまでの功績を認められ「平宗盛」の家人としてなるけんど、1180年に源氏再興の旗印を建て「源頼朝」が挙兵し、再び源氏と平家の戦乱がはじまると、今度は平家の恩に報いるため「平家」として戦う事になるが・・・・・・

その戦の流れの中で、平家軍は「木曽義仲」追討のため北陸に向かうがですが、この時「斉藤別当実盛」は、「平宗盛」から貰った大将用の赤地錦の直垂を着て、年老いた武士とあなどられないよう白髪を墨で黒く染め、出陣するがです。

けんど1183年の「篠原の戦い」で、「木曽義仲」の軍に押され、平家は敗走するがですが最後尾でただ一騎ふみとどまり防戦するけんど、義仲軍の「手塚太郎」と相戦うて「実盛」は壮烈な討死をするがですが、「実盛」は最後まで名を名乗らんかったそうです。

無理も無かったがでしょう・・・・・もとは源氏として仕えていた時に、助けた「木曽義仲(駒王丸)」と戦う事になったがですから。

多分、哀れみなどかけられず、平家の恩に報いるための一念から、退路を絶とうとしたがでしょう。

歴史とは皮肉なもんじゃねー。

「木曽義仲」は、大将らしき姿で名を名乗らない武者が、白髪を染めた「実盛」であったことに気が付いた時、命の恩人の無惨な最後に泣き崩れたという事ながです。

この壮烈な戦の悲劇は、後に「平家物語」・「源平盛衰記」・歌舞伎「実盛物語」・謡曲「実盛」など、数多く語り継がれちょります。

一部、 「フリー百科事典 ウィキペディア」参考


少々長うなったけんど、「実盛」が討死にする時の状況が、乗っちょった馬が”稲”の切り株につまずいて転倒したためらしいが。

最後の言葉が、「虫になって食い尽くす」と”稲”を呪ったそうながで、死後「実盛」は稲を食い荒らす害虫「稲虫(特にウンカ)」になったと伝えられちゅうがです。

この辺りも「穀倉地帯」じゃき、虫の害から稲を守ってもらうという事で、此処に祀れれちゅうがでしょうねー。

夏を迎える前に害虫の駆除を目的とした儀式が沢山あるけんど、高知でも「虫送り」と言う風習があるが。

これも「実盛」さんの”怨念”を払うために始まったとされちゅう、行事ながです。
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