悲話 - おちよ地蔵


[ 向かって右が”お母さん”、左が娘の”ちよ” ]





[ 高知県高知市朝倉丙 ]


おちよ地蔵の由来

今から160~170年ばあ前、この地区に百姓の母と二人暮らしをしよった、13歳になる「ちよ」と言う、こじゃんと綺麗な娘がおったと。

穏やかな「鏡川」は、村に豊かな幸をもたらしてくれる川じゃたけけんど、時として大雨のたびに堰が決壊して、朝倉や鴨田地区は水害に悩まされちょったそうながです。

ある年、誰が言い出したか「水神さま」を鎮める為に、人柱を立てることになって、13歳の「ちよ」に”白羽の矢”が立ったがです。

村人らーは、残される母親の面倒を見ると言う約束をしたき、「ちよ」は人柱になったそうです。

それから、何年かの歳月が過ぎたある日、一人残された”お母さん”は孤独の中、寂しく死んで行ったと。

ようするに村人達が、「ちよ」との約束を守らんかったがです。

そんで、ある年の夏に大雨が降って、鏡川が氾濫して、村落に大きな被害を与えたと。

そいたら、誰と言う事なく「”ちよ”との約束を忘れ、”お母さん”の面倒を見んかったき、天罰があったんじゃ」ということになって、村人らーは”二人の霊”を慰めるために、川の見えるこの地に母子二体の地蔵を建てて、祀ったと言うことながです。

台石には嘉永七年二月(1854)建立の銘が刻まれちゅう。


今は、近在の人たちに大事にお祀りされちょります。

今日も傍の”大銀杏”の木が、鏡川を見下ろし、母子二体の地蔵を守っちょります。
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2 Comments

佐七 さんへ">

佐七 さんへ  

Re: 本日、野根川で、、、

佐七 さんへ">


現在の東洋町野根の中島辺りは沖積平野でして、天正17年の(1589)の『野禰村地検帳』によると水田としての耕作可能な面積は僅か50%程しかなかったそうです。
宝暦年間(1751-1764)でさえも石高(1石が、人一人が一年間に食べる米の量で約150kg)は60-70石しか耕作出来なかったそうですので、単純に年間60-70人分の米しか耕作出来ないような荒れ地だったようです。
そのため、天保7年(1836)に周辺の大庄屋と惣老(村落の長老達)が、長年の危機的な困難を打破するには灌漑用水の確保をしなければ救われないとして、郡奉行所に連名で願い出て六年の歳月を費やして完成したのが、野根川上流の長峰から山沿いに引いた「長峰溝」と呼ばれる用水路です。
お蔭で干害の被害は無くなったものの、度重なる洪水による被害は容易ではなかったようです。
当方は、まだ東洋町に足を踏み入れた事がなく実際に供養塔は見ていませんので何時の時代かは不明ですが、堤の修復のために女性を人柱に埋めたと言う伝承が残っていて、鴨田橋の下の河原に供養地蔵を建てたそうです。
ご貴殿がご覧になった供養塔は、この供養地蔵だと思われます。

2015/02/22 (Sun) 09:32 | 佐七 さんへさん">REPLY |   

佐七  

本日、野根川で、、、

はじめまして、佐七と申します。
今日の発見で高知県安芸郡東洋町野根の野根川に鴨田橋と言う橋がありました。その橋のたもとに、2体の地蔵尊と供養碑があり、その中に「鴨田人柱地蔵供養碑」と言う掘り込みがあり、検索でこのブログにたどり着ました。
この野根での人柱と記載がある分に関しましては、何か伝説等が残っているのでしょうか?もしご存じでしたら、教えて頂けたら助かります。
m(_ _)m

2015/02/21 (Sat) 23:31 | EDIT | REPLY |   

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