板垣退助邸跡

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[ 高知県高知市萩町2丁目 ]


鏡川右岸を浦戸湾方向に行くと、右側の”東洋電化工場”の脇に「板垣退助先生邸址」と彫られた大きな石碑が建っちゅう。

この邸宅跡は、戊辰戦争での功績を讃えて、山内家から「釣御殿」を与えられたそうながです。

今は石碑しか無いないけんど、自由民権期の彼の本邸として使われ、県内外の多数の運動家がここに集まったそうながです。


明治6年(1873年)、”西郷隆盛”、”江藤新平”・”後藤象二郎”・”副島種臣”らと共に主張した「征韓論」が敗れ、公職を辞し一同は一斉に下野し、彼らは「民撰議院設立建白書」を政府に出し、”藩閥政府”による政治に反対して、「自由民権運動」を起こしていくがです。


民撰議院設立の建白書(意見書)

いま政権は皇室にも人民にもなく、薩長の高級役人だけがにぎっている。

法令がつぎつぎに出されては、すぐに、改正されるありさまで、政治や刑罰が私情に左右され、賞罰も愛憎によってきめられている。

言論の道はふさがれ、その苦しみを訴える方法もない。

こうした状態を救う方法は、天下に公議世論をさかんにして、民選議院をたてるほかない・・・・・

(一部要約)


自由民権運動とは、人間は自由・平等であるとの基本思想に基づき、国会開設(参政権)・憲法制定・地租の軽減などを要求した政治運動ながです。

また藩閥と言うのは、幕末期の討幕軍の中心じゃった「薩摩藩」・「長州藩」・「土佐藩」・「肥前藩」の”薩長土肥”を指すけんど、実際には「薩摩」・「長州」両藩出身者が大半を占めちょった。

特に「土佐藩出身者」の多くは、維新の夜明けを見ずに、野に屍を散らしちょったき。

要するに維新政府は「薩摩」・「長州」が徳川幕府に取って代わっって、明治の終わり頃まで自分達が政権を握る政府を作ってしまったことが、今日の日本を駄目にした張本人達ながです。

龍馬が暗殺された事で彼の描いた理想が消え、維新後の西郷や江藤らの”死”や、”大久保利通”の暗殺によって、実質的には「伊藤博文」や「山縣有朋」らの長州勢が天下国家を牛耳ることになったが。

今日までの「保守政党」の総理大臣や有力議員の出身地が、薩長出身者が多いと言うのが現実ですき。

話は戻って、政府に反感を持っちょったもんは士族が中心じゃったき、結果的には”江藤新平”は「佐賀の乱(1874年)」を起こし、逃走先の高知で捕まって佐賀に送られ”死刑”された。

西郷隆盛もまた、士族による武力反乱、「西南戦争(1877年)」で、政府軍と戦こうて戦死したがです。

因みに、映画「ラスト・サムライ」の筋書きも士族の反乱で、”西南戦争”がヒントじゃと思うちょります。

渡辺謙の演じた”勝元”こそが”西郷隆盛”で、トム・クルーズが演じた”ネイサン・オールグレン”は、”ジュール・ブリュネ”と言う、江戸幕府の近代化のために派遣されたフランス陸軍士官で、”榎本武揚”率いる旧幕府軍に参加し、 ”箱館戦争”を戦った人物のようですねー。

また話はそれたけんど、板垣退助は”自由民権運動”を推し進め、数々の試練を乗り越え、明治14年(1881年)に「自由党」の総理となり各地で遊説を行って、岐阜で暴漢に襲われ”暗殺”されかけた事は有名な事件ながです。

明治23年(1890年):旧自由党を立憲自由党として再興し、翌年、自由党に改称

明治31年(1898年):大隈重信の進歩党と合同して憲政党結成

明治33年(1900年):伊藤博文の立憲政友会が創立した時、組み込まれ政界を引退

彼の理念は、「世襲」の”華族制度”を否定し自ら「一代華族論」を主張し、全国の華族に書面にて賛否を問う活動を行い、自身も「子孫に美田を残さず」という主旨から、子に襲爵をさせなかった。

ただ彼が「伯爵位」を授爵したがは、”授爵の勅”を二度断ったけんど、明治20年(1887年)5月、「三度の拝辞は不敬にあたる」と周囲から諭され、三度目にして、やむなく伯爵位を授爵したそうながです。

政界を引退した時点で、板垣退助の「自由民権」の理念は消え去り、長州勢の政党に取って代わられ、幾多の政党変遷を経て現在の「保守政党」に継がる。

* フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を一部参照しちょります。
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