開拓の碑 - 便利さの裏表



[ 高知県南国市久枝 ]


碑にはこう刻まれています。

この地は明治22年7月物部、久枝、下島三村が相寄って誕生し香美郡に属した元の三島の里である。

沃土は農を興し、黒潮に恵まれて文化の香り高く、県下屈指の優良村となって栄えた。

秋田川の流れは老若に憩を授け、鎮守室岡山は白鳳から明治にわたる数多い津波洪水に村人避難の神域となり命山と呼んでその信を集めた。

第二次世界戦争の予兆濃い昭和16年早々、日本海軍はここに航空基地を建設す。

総面積2184反を接収、263戸、1500余の住民ら急遽(きゅうきょ)退去を命ぜられる。

人々互いに別れを惜しみ父祖の霊位を抱き、慌ただしく村を去る。

翌17年日章村発足となる。

年を経ずして敗れて戦は終わり、接収土地の還元を見る。

縁の者らは組合をつくり、失った古里再興に祈りをこめ、汗にまみれ、苦難を越えて、ひたすら開拓の鍬をとる。

退去を免れ残された寸土を守り続けた者達も一つの思いに力をあわせた。

しかるに、すでに国、県は859反を高知大学、空港用地と決定し、われら農民の全土払い下げへの悲願を断つ。

続いて工専が開設され、さらには今次空港の再拡張となり、開拓の面影は潰え去るに至った。

思えば半世、時の流れには抗し難し。

古里いまはただ来る世の礎石となり、せめて学究の若者達の開ける道と、県土夜明けの空の道とならんことを。 

茲に組合を閉ざすに当り、後世のため碑を建て、沿革大略を誌す。

昭和60年3月

            日章開拓農業協同組合

            元日章村長・元県議会議員 西内四郎書



昔、三島村と呼ばれちょったこの辺りは、肥沃な土地の続く田園地帯じゃったそうやか。

1939年(昭和14)年に、海軍の航空基地建設用地として接収される事になり、263戸、1500人程の住民は急遽撤去を命ぜられ、互いに別れを惜しみながら先祖の霊位を抱き慌ただしく村を去っていったそうです。 

そして「海軍日章基地」が建設され、元の三島村の7割が基地になったそうやき。

太平洋戦争の戦局が悪化した昭和20年3月にゃ、「神風特攻隊・菊水部隊白菊隊」が編成され、ここから鹿児島県鹿屋特攻基地経由で、52名の隊員が沖縄の敵艦隊に向かって飛びたち、壮絶な死を遂げた事も事実やか。

戦後、摂取された土地が全面変換されると思っちょったがのやけど、ようよう変換されたのは半分ばあやったそうながです。

旧村民の落胆振りは大きかったことにかぁーらん。

それに、変換された土地は基地として使用されちょったがやき、新たに「開墾」し直さなー、元の水田や田畑に戻す事が出来かって、そのために「開拓組合」を作って開墾をおこなったがやそうです。

残りの変換されなかった土地は「日章飛行場」としてのこったがや。

1983年に空港ターミナルビル新築移設に伴って滑走路を2、000mに延長され、さらに2004年に東京-高知線のジャンボ機が離発着出来るようにと滑走路を2,500mに延長するがで。

けんど、その影にゃ戦後苦労して開墾した土地が空港用地として、再三取り上げられたとゆう経緯やか。

この碑は、1983年に滑走路を2、000mに延長された2年後の建てられた碑や。

現在、「高知龍馬空港」として使用されていて、2004年にジャンボ機の離発着出来るように滑走路の延長もされちゅうけんど、通常ジャンボジェット機は就航しちゃーせん。

飛んだとしたち、チャーター便が数回程度やないろーか。

便利さとの裏腹に、戦前戦後通して苦渋をなめた方々の思いを図り知る事は出来やーせんが、歴史の一部として忘れてはいけない事実が此処にゃあるがで。
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