厳島神社 - 龍馬最後の帰港時の震天丸停泊場所近く

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[ 高知市御畳瀬 ]


この島と厳島社のことを地元では「狭島(さじま)さん」と呼んじょります。

狭島ちゅうがは昭和30年代まで現在地の北東数百メートルの海上に浮かんじょった自然の島で、周囲僅か40~50メートルばかりの小さな島なので、”狭い島”と言う名がついたがらしいがですが、その昔「仲哀天皇」が巡幸の際、この島に桟橋を架けて風景を眺めた事から、古くは「桟島」とも呼ばれちょったとも記されているようながです。

当時の(昭和三十年代半ばまで)「狭島」には、現在の「狭島さん」に祀られている厳島神社があって、桟橋に建っていた鳥居から、二つ連なる太鼓橋が架かっちょったらしいがです。

それに桟橋辺りの水深5メートルほどの海中には、古代の祭祀跡のような、四畳半位の人の手が加えられたような平らな岩があったそうで、与那国島などの海底にある先史の超古代遺跡の類ではなかったかとも言われちょります。

かつて浦戸湾口は「松島」を思わせるような、いくつもの島や浅瀬があっって風光明媚じゃったそうですけんど、浦戸湾を航行する船の邪魔になると言うことで、昭和30年代の終わり頃に爆破されてしもうちょります。

また太平洋戦争前後に埋め立ても進み、景観は大いに変わったと言うことながです。

こうした爆破されて失われた島に関する「面白い話」も残っちょるようです。

寺田寅彦の随筆「藤棚の陰から」には、明治時代に、或る岩礁を爆破したら、どこからともなく大量の砂が流れ込み大変なことになったことがあったそうながです。

この件は、土佐藩の執政で、藩内の灌漑土木工事史にも偉大な功績を残した「野中兼山」が、「浦戸港の入り口に近いある岩礁を決して破壊してはいけない、これを取ると港口が埋没する」と言ったという話を、証明するものだと書いちゅうがです。

今では跡形も無く埋め立て改造された浦戸湾じゃ、先人の気付いた異変等の確認のしようがないけんど、彼らの目には海底に変わった兆候が見受けられたがでしょうか。

またこの「端厳島神社」の近くには、龍馬が最後に「震天丸」で帰郷した際の、碇泊場所があるがです。

ただ、残念ながら陸からは見えんき、「高知市観光遊覧船」に乗船すれば船から見ることが出来るがです。


震天丸碇泊場所。

御畳瀬港の北端厳島神社に接して石油タンクがあります。

それより北方200mの所に、小さい岬があり、その先端付近に海上に浮かんだ石が見えます。

高さ4m、周囲12m、根元周り15mの円錐形。

昔、鬼が袂に入れて持って来たという伝説の石です。また小さい石が次第に大きくなったという珍説が残っています。

この付近が、慶応3年9月24日(一説には23日)、龍馬を乗せた芸州船震天丸が、ライフル銃1,000挺を積んで入港、碇泊した場所です。

長崎でオランダのハットマン商会からライフル銃1,300挺を買ったのが9月14日。

100挺を請人の商人鋏屋与一郎、広瀬屋丈吉に抵当として預け、200挺は下関で海援隊士陸奥宗光と菅野覚兵衛に渡し、1,000挺を土佐藩に売るために帰国したのです。

交渉は長崎から同行した岡内俊太郎が、藩の参政渡辺弥久馬らと折衝しました。

同行者は中島作太郎、戸田雅楽、岡内俊太郎、広瀬屋丈吉ら。

龍馬は交渉中、中城家、吸江寺、船内に泊まったと言われていますが、交渉終了後、5年ぶりに上町の家に戻り、兄権平、姉乙女達と会ったそうです。

10月1日震天丸は浦戸を出港、これが龍馬最後の帰郷でした。

「坂本龍馬大事典」より
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