国指定の「史蹟」・瑞山の墓所 - 武市瑞山

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[ 高知市/仁井田 ]

「武市」が投獄されて亡くなるまでの1年9ヶ月あまり、妻の「富子」夫人は毎日3食を欠かさず牢に差し入れ、また夫を慰めるため書籍や自作の押絵なども共に差し入れていたという。

維新後、木戸孝允(桂小五郎)は、旧土佐藩主「山内容堂」との酒の席で酔い、「なぜ武市を斬った?」と容堂をなじったそうですが、それに対して容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったといわれちょります。

だが、容堂は「武市」を切った事を悔いていたとも言うがです。

明治39年に当「宮内大臣」となっていた、元土佐勤王党の「田中光顕」が、苦しい生活を送ちょった富子夫人を見つけ、一家に心から誠意をつくしたそうながです。

東京の瑞山会会員の支援も受け、武市家養子の「半太」に医師の資格を取らせ、故郷・高知の檮原村で開業させる事もしちゅう。

また盟主「武市瑞山」を心から尊敬しちょったきに、富子夫人が外出する時などは馬車に乗せ、自分は大臣の身でありながら徒歩で付き添ったとも伝えられちょります。

富子夫人は大正6年(1917年)まで存命し、今は「瑞山」の脇で寄り添って眠っちょり、墓所は国指定の「史跡」になっちょります。



もっと土佐人は「新時代」を造り上げ、野に山に散っていった多くの志士達に畏敬の念をもって敬うべきじゃと思うがです。

特に、土佐関係の志士達は殆どと言って良いほど、新国家の「夜明け」を見ないまま屍と化しちゅう。

本当の意味でのヒーローは、生き残って「明治維新」を迎えた人々じゃのうて、「幕末」と言う時代の中で散って言った有名無名の「維新の志士達」ながですよ。

オンチャンも高知に戻んて来て、写真を撮りに史蹟と称される場所を廻って実際に見てみると、その扱われ方を嘆かわしく思う事が多々あるがです。

もっと敬い、子供達にも郷土の歴史を誇れるような教育もして欲しいと思う今日この頃です。

まあ中には非公開の書き込みで「いまさら龍馬、武市、維新の志士ゆって如何なるがぜよ・・・・」とか頂きますが、またそれも一つの考えじゃきに、それはそれでエエでしょう。

ただハッキリ言える事は、彼らの死は無駄ではなく、彼らが命を落としてまで「倒幕」へと突き進んだ結果が、今日に繋がちょる事は忘れるべからずぜよ。

彼らは「郷土」の、否、「日本」の誇りでもありますき。


[ アクセス ]
・はりまや橋(8番乗り場)から、 土佐電バス 前浜線(下り)「前浜行」で、
 約20分「瑞山神社前」下車、徒歩スグ
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