板垣死すとも、自由は死せず - 板垣退助誕生地

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[ 誕生地  高知市/南新田町 ]

1837年板垣退助は、この地に藩士「乾正成」の長男として生まれたがです。

今はお寺になっちょって、記念碑だけあるがです。

維新後の明治6年(1873年)に「征韓論」を主張し敗れ公職を辞し、高知に立志社を設立し「自由民権運動」を推し進め、「自由党」の初代総理となるがですが、岐阜で遊説中に暴漢に刺され「板垣死すとも、自由は死せず」と言う言葉を残しちゅう。

その関係か、岐阜公園にも板垣退助の銅像が建っちゅうがです。

板垣退助の起こした「自由民権運動」は、その後の「大日本帝国憲法」や国会の開設に大きな影響を与えたと言われちゅうがです。

さて元々「乾」姓じゃったがですが、維新後新政府軍が甲府城に入城した時に、「乾」から「板垣」姓へ変えたらしいがです。

と言うのも甲府は「風林火山」で知られる武田信玄の城下で、その家臣じゃった「板垣駿河守信形」の子孫にあたる事から、甲府の民衆に親近感を与えようとして「板垣」姓に変えたようながです。

そして新政府軍の「板垣退助」として北上し、白河・会津へと攻め込んで行くがです。

彼は会津攻めの悲劇を生んだのは、「会津の藩士と領民とが一致団結せず、領民たちは会津の興亡に無関心じゃった」きに、落城させる事が出来たと感じたようです。

その時の経験から後に「豊かで強い国家を作るには、国民全てが平等であり、団結していなければならない」という想いを抱き、「士民平等論」を掲げる発端となり「自由民権運動」へと繋がって行くがです。


[ アクセス ]
・土佐電鉄・おおはし通り電停から徒歩約5分
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