永福寺門前事件(井口事件) - 永福寺

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[ 永福寺門前  高知市/井口町 ]


坂本龍馬ファンの方は、よう知ちゅうと思うけんど、幕末期の土佐藩では「上士」と「郷士」と言う身分制度があったが。

そんな文久元年(1861)三月、上士と郷士が斬り合う刃傷事件が起きたそうな。

この永福寺門前を通りかかった、酒に酔った上士の「山田広衛」・「益永繁斉」と、郷士の「中平忠次郎」・「宇賀喜久馬」がすれ違いざまにお互いの「肩が触れた」・「触れぬ」の口論との末、上士の「山田広衛」が郷士の「中平忠次郎」を斬り捨てたとされちゅう。

これを知った「中平」の兄の「池田虎之進」は急ぎ門前に駆けつけ、永福寺前の小川で刀を洗うちょった「山田広衛」・「益永繁斉」を斬殺したと・・・。

この事件を発端に、「山田広衛」邸には上士が、かたや「池田虎之進」邸には郷士達が集まり一触即発の状況になったそうなが。

このまま事態が悪化すると全面衝突が避けられんと言う事になり、老巧の者が「池田も仇を討った以上、今更命を惜しむ理由もあるまい。だから言うて上士のもとへ引き渡すわけにもいかんきに、ここは潔く腹を切って、武士の名誉を立てるしかあるまい。」と主張して、「池田虎之進」と「宇賀喜久馬」の両名が切腹することで事態の決着をつけたそうながです。

この事件以降に、「土佐勤王党」が結成され、やがて郷士達は土佐藩に見切りをつけ、次々と脱藩し激動の歴史のうねりの中に突き進んで行き、多くの志士達が野に屍を晒す事になるがです。

この時、「宇賀喜久馬」は19歳じゃったそうながですけんど、切腹の際に介錯をしたのは少年の兄じゃったそうです。

この兄と言う人は、長宗我部家の家臣の出で郷士「宇賀市良平」の次男として生まれ、幼名を知己之助と言い、龍馬の幼友達であったそうです。

18歳の時、同じ郷士の「寺田久右衛門」の養子になり「寺田利正」を名乗り、子供の「寅彦」を育てたがです。

この「寅彦」こそ、日本の「物理学者」にして「随筆家」、また「吉村冬彦」の筆名もある俳人としても有名で、また「天災は忘れたころに来る(天災は忘れたころにやって来る)」の名言で有名な「寺田寅彦」です。

因みに、龍馬は子供の頃、この「永福寺」に遊びに来てはよう悪戯をしよったそうじゃき。


[ アクセス ]
・はりまや橋から、土佐電鉄「伊野・朝倉・鏡川橋」方面行きに乗車。
 「上町五丁目」もしくは「旭町一丁目」下車、徒歩約5分。

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