高岳親王塚 - 平城天皇の第3皇子で出家し空海の十大弟子の1人に

高岳親王塚(土佐市)

[ 高知県土佐市高岡町 ]


土佐市の北側にある清滝山の中腹に四国霊場第35番札所・清滝寺があるがですが、参道を上り詰めた清滝寺寺域内の左側に鬱蒼とした木々の繁る「不入の森」とされる小高い丘があり、「高知県史跡 高岳親王塚」と言う石碑が建てられちょります。

前回投稿した、松尾八幡宮の記事でも書いた貞観3年(861)に土佐・高岡に来た人皇第51代・平城天皇の第3皇子・高岳親王の逆修塔(生前に自分の死後の冥福を祈るために建てた供養塔)とされちょり「不入の森」になっちゅうがでして、『南路志』にゃ、御室(おむろ)と称されていたと記されちょります。

松尾八幡宮 - 蓮池守護・大平氏の中山信家が勧請し、後に松尾城に移した城八幡

高岳親王塚(土佐市)

高岳親王は、延暦18年(799)に生まれ、桓武天皇の第1皇子・平城天皇の第三皇子になるがです。

大同4年(809)に父の平城天皇が病気のため在位僅か3年で退位して、弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位して上皇となり、嵯峨天皇は兄・平城天皇の子で甥っ子になる高岳親王を次期天皇候補の皇太子に立てるがです。

退位した平城上皇は、同年12月、旧都である平城京に移り住んだが、平城上皇が天皇の時に設置した観察使の制度を嵯峨天皇が改めようとしたことから平城上皇が怒り、二所朝廷といわれる対立が起こるがです。

平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成は、この対立を大いに助長し、翌弘仁元年(810)に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生するが失敗し、高岳親王は皇太子を廃されるがです。

弘仁13年(822)、23歳の頃、四品に叙せられ名誉は回復されるけんど、真如と名乗り仏門に入り、皇族で最初に出家した人物じゃとも言われちょります。

奈良の宗叡・修円に学び、空海(弘法大師)の弟子になり密教を学び十大弟子の1人となり、高野山に親王院を開き、阿闍梨の位をうけ、承和2年(835年)に空海が入定すると、高弟の1人として遺骸の埋葬に立ち会ったという。

60歳になった頃、入唐求法(618 - 907年栄えた、当時の中国の王朝)に渡る事を朝廷に願い出、貞観3年(861)に高岳親王一行23人は奈良より九州に入り、翌貞観4年(862)に大宰府を出帆して明州(現・中国の寧波)に到着したという。


奈良から九州に入ったという高岳親王が貞観4年(862年)に土佐・高岡に来たのは、当時の瀬戸内海には海賊がおり海路危険じゃったので、紀貫之も通ったように南海道(太平洋側)を経由したと言われちょります。

高岳親王塚(土佐市)

土佐には約1年程一ケ年程滞在し、その後、唐に渡ったと言い、土佐市の高岡周辺にゃ、高岳親王に関わる伝承や遺跡が点在しちょります。

① 本記事の「高岳親王塚」
② 松尾神社
③ 仁淀川の由来は、諸説あるけんど清滝から見た川が「淀川に似ている」と言う事から、「似淀川」から「仁淀川」になったとか。
④ 「京間の大銀杏」に、船を繋いだ
⑤ 仁淀川河口の新居は、「難波の住之江に似ている浦」と言った事から「新居の浦」
⑥ 松尾八幡宮の傍を流れる川を、京都の「鴨川・賀茂川」」に見立てて、加茂川と名付けた
⑦ 蘇鶴温泉は、大内の里に僑居していた時、この鉱泉を沐浴に用いていた
⑧ その他、御所の跡や、家臣たちの名が地名になっちょたり

と数々の親王伝説が残っちょります。
 
京間の大銀杏 - 土佐市天然記念物 2008.10.

其の後、唐の長安に着いたのは貞観6年(864)じゃそうです。

しかし、当時の唐は仏教は衰退しちょったらしく、更に天竺行きを決意し、貞観7年(865)3人の従者を連れて、海路天竺を目指し出発したが、その後の消息を絶ったという。

それから16年後の元慶5年(881)に、唐に渡っていた留学僧・中瓘らの報告で、親王は羅越国 (ラエツコク: 中国の『新唐書』 地理志にその記述があるマレー半島南端にあったと考えられる国)で虎に襲われ亡くなったと伝わっちゅう。

マレー半島最南端に当たるのは、現在の「マレーシア」ながですが、そのマレー半島最南端に位置するマレーシア・ジョホール州の州都ジョホール・バルにある日本人墓地の一角に、高岳親王の供養塔が建立されちょるそうです。



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