野田城址 - 一条氏との戦い後、野田甚左衛門改め宿毛甚左衛門と名乗る

野田城址(南国市)

[ 高知県南国市下野田 ]


周辺は宅地と水田の広がる一角に、城八幡が祀られちゅう野田城址はあるがです。

詳細は分からんけんど、ここ等が詰めだったがでしょうか・・・・・。

右側の道路脇に、「野田城跡」の案内板があった。

野田城址(南国市)

野田城

大将軍の宮の邊(辺)りにあり、秦(長宗我部)の国親支城也。
城主野田甚左衛門、之を監す。
野田氏の世系詳かならず。

【 参考・引用 】  『土佐古城略史 全』 宮地森城・著


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野田甚左衛門は、第20代岡豊城主・長宗我部国親、元親の時代の人で、初代・野田氏を名乗ったのは、第6代・長宗我部満幸の四男・俊吉に始まると言う。

因みに、長男は家督を継ぎ七代目・長宗我部兼光となる。
次男は広井氏。
三男は中島氏。
五男は大黒氏となる。

野田城址(南国市)

野田甚左衛門は、第21代岡豊城主・長宗我部元親の時代の野田城主じゃったがです。

天正3年(1575)に長宗我部元親が幡多・一条氏との戦い後、宿毛城を与えられた後には、姓を改め、宿毛甚左衛門と名乗るがです。

『土佐物語』には、元親は、「長宗我部家どんな武辺者(勇敢な武士。武事にすぐれた人)が出ても、先陣は桑名弥次兵衛、中陣は久武内蔵助、後陣は宿毛甚左衛門と心得よ」と遺言したとか・・・・・。

詳しいことは不明じゃけんど、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、長宗我部家改易後は、1500石で藤堂高虎に召抱えられたと言う。

最後に、余談じゃけんど、「七人みさき」でも知られちょります吉良親実が、天正14年(1586)長宗我部元親の嫡男・信親が九州・戸次川の戦いで戦死して跡継ぎ騒動が起こった時、長宗我部元親の怒りを買い切腹するがですが、この時、介錯したのが、検使役じゃった宿毛甚左衛門だったと言う。

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