FC2ブログ

川原塚茂太郎 - 坂本龍馬の義兄で土佐勤王党には11番目に加盟

川原塚茂太郎(高知市)

[ 高知県高知市 ]


ブログ再開の最初の記事は、やはり坂本龍馬に関わりのある義兄・川原塚茂太郎ですき。

川原塚茂太郎(かわらづか もたろう)は、文政13年(1830)に高知城下南奉公人町(現・高知市)の土佐藩徒歩格・川原塚重喜の子として生まれ、名は重幸と言うがです。

前述で記した義兄と言うのは、坂本龍馬の兄・権平さんの妻・千野さんの弟になるからながです。

川原塚茂太郎は、文久元年(1861)に武市瑞山が江戸留学中に土佐勤王党を結成して土佐にもんて(帰って)来て直ぐに土佐勤王党血盟同士として11番目に加盟し、同志糾合に尽力したそうですが、他の仲間達のように京に上って奔走したり出来んかったがです。

それは、年老いた母と、精神を病んだ姉を抱えちょったそうで、他に面倒を見る者が居なくて、自らが母と姉に孝養を尽くさざるを得なかった言う。

「そりゃー、たいへんじゃねー」と言うは易しで、人間そうゆう境遇になって、年老いた親を見たり、病人を介護せん事にゃ、他人の苦労は分かりませんき・・・・・。、

ちょっと余談じゃったけんど、それでも、茂太郎は土佐にて自らに出来える事に尽力しちょるがです。

元治元年(1864)にゃ、土佐勤王党の獄で牢に繋がれた武市瑞山や仲間達を救うべく南会所への決死建白を行って党の挽回を図ったりと、土佐に残った土佐勤王党員の中核として奔走し、仲間達のために尽くしちょるがです。

戊辰戦争では、慶応4年5月(1868)、越後長岡藩家老・河井継之助と新政府軍軍監・岩村精一郎が小千谷の慈眼寺で会談するも決裂した事で、同年6月、川原塚茂太郎は戊辰戦争最大の激戦の一つ北越戦争に軍事掛徒目付として従軍し11月に土佐に帰国しちょります。

維新後は讃州金陵会議結、川之江民政局副参事を歴任し、明治3年(1870)職を辞して土佐に帰国し、明治6年(1873)にゃ教部省に出仕するも、明治8年(1875)に辞職し土佐に帰国しちゅう。

けんど明治9年9月2日(1876)、国事犯の嫌疑を受け東京の警視庁に抑留され拘留中の、同年10月16日に獄死しちょります。

拘留僅か1ヶ月半。

病死だったのか、拷問による死だったのか・・・・・。

享年47歳。.

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社


川原塚茂太郎(高知市)

この、お墓は遺髪墓で、写真の墓碑にも刻まれちゅうように、「葬東京白金丁(町)善長寺境内」に埋葬されたようじゃけんど、現在、東京都港区白金にゃ善長寺は見当たらん。

調べたら、他の寺と合併して、現在、善長寺は存在しません。

増上寺子院群

『江戸名所図会』のなかの名所として記されていませんが、明治の地誌「風俗画報」東京近郊名所図会には、上大崎1丁目の増上寺下屋敷についての記載があります。

現在、増上寺子院群とよばれているところで、寛文元年(1661年)麻布狸穴(港区)から移転してきた本願寺・最上寺・戒法寺・光取寺・清岸寺・正福寺・善長寺の7ヵ寺に、高輪から移ってきた了福寺の8ヵ寺でした。

正福寺・善長寺・了福寺は廃寺となり、正福寺跡には後に移ってきた常光寺と、善長寺は隆崇院と合併、また了福寺跡には宝蔵寺、昭和6年(1931年)には月窓院が移ってきて現在のような寺町となっています。

【 参考・引用 】  江戸から明治の品川名所 第9回|品川区




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment