菅原高視朝臣 - 父・菅原道真に連座して土佐権守として土佐に左遷

菅原高視朝臣墓(高知市北高見町)

[ 高知県高知市北高見町 ]


菅原高視は、菅原道真の長男。

昌泰4年=延喜元年(901)、左大臣・藤原時平の讒言により醍醐天皇が父・右大臣菅原道真を大宰府へ左遷した昌泰の変で、菅原高視朝臣も連座して土佐権守として京都を追われ土佐に左遷されちょります。

昌泰の変

昌泰4年(901)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件。

宇多上皇は醍醐天皇に譲位した後も、『寛平御遺誡』という君主の心構えを新帝に説くばかりでなく、道真を始め源善・中納言源希・蔵人頭平季長・侍従藤原忠平といったいわゆる「寛平の治」の推進役だった一種の側近集団を新帝の周囲に配置して新帝の政策を主導しようと図った。
これに対して時平や大納言源光ら上級貴族のみならず、藤原清貫・藤原菅根・三善清行ら中下級貴族を含めた激しい反発があったともいわれる。

その一方で醍醐天皇の即位当時、仁明天皇の嫡流子孫である元良親王(陽成天皇皇子)らを皇位継承者に擁立する動きに強い警戒感を抱いていた宇多法皇は自分の同母妹為子内親王を醍醐天皇の妃として男子出生を願ったが内親王は早世した。
そこで醍醐天皇は藤原時平と相談してその妹である藤原穏子の入内を進めた。
だが、宇多法皇はこれを時平が外戚の地位を狙うものとして強く反発した。
阿衡事件(阿衡の紛議)の苦い経験から、藤原氏腹の皇子の誕生を望まなかった宇多上皇と藤原氏との連携によって政権の安定を図る醍醐天皇の路線対立が明確になっていった。

やがて、宇多法皇が道真の娘婿でもある斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が流れると、宇多上皇や道真の政治手法に密かに不満を抱いていた醍醐天皇と藤原時平、藤原菅根(折りしも病死した平季長の後任の蔵人頭に就任していた)らが政治の主導権を奪還せんとしたのである。
1月25日、突如醍醐天皇の宣命によって道真は大宰員外帥に降格された。

【 参考・引用 】  昌泰の変 - Wikipedia


朝菅原高視臣の墓所のある下の方には住居跡もあり、今でも高見(高視)山として地名も残っちょります。

延喜6年(906)、朝菅原高視臣は復官し京に戻り、延喜13年(913)に38歳の若さで亡くなったと云うけんど、土佐じゃ、此の地で亡くなったとされより、写真のように墓所もあるがです。

菅原高視朝臣墓(高知市高見)

随身像 - 潮江天満宮 2009.01.13



[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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