中村越前守信義 - 三野代官・三野信近の子で佐川松尾城城主

中村越前守祠堂(佐川町)

[ 高知県高岡郡佐川町 ]


長宗我部元親が土佐統一を図る前、佐川松尾城主じゃった中村越前守を祀る祠が在る事を知り探しに行ったがです。

手掛かりは町立高北国保病院付近と云うだけじゃたがですが、佐川町役場の方から北に(病院方向)に周辺をキョロキョロしながら歩きよったら、病院と道を隔てた西側にある特別養護老人ホーム・春日荘の正面入口を過ぎ70m程行った道路沿いの敷地内に角塔婆(四角い柱型をした卒塔婆)が目に入ったがです。

角塔婆

五輪角塔婆の略。
板塔婆,卒塔婆,塔婆などと同種類のもの。
インドで釈尊の死後その舎利や遺品遺髪を埋めてその上に建物を造り,ストゥーパ (塔) としたのが始り。
マウリヤ王朝およびそれ以後特に多く造られた。
のち中国に入ってからも造られ,日本でも法隆寺,薬師寺の五重塔,三重塔などいまでも多く残っている。
これらの塔が転化し,密教の影響を受けて地水火風空という五大の種子である梵字を書いて造られたのが五輪塔である。
またそれを変形し地輪を長く柱として造られたのが角塔婆で,死亡した人々の追善供養のために立てられるようになった。

【 参考・引用 】  『ブリタニカ国際大百科事典』 


近寄って見ると、傍にあった祠の脇にゃ「佐川町史跡 中村越前守祠堂」の標柱も建っちょりました。

中村越前守祠堂(佐川町)

三野代官・三野信近の子・中村越前守信義の生年は不祥じゃけんど、南北朝が統一して90年ぐらいたった室町時代後期の弘治2年(1556)、土佐の七雄(七守護)の一人で蓮池城主じゃった大平隠岐守元国の命で、高北の小守護代・中山信康の孫・伝兵衛(信義の従兄弟)が成人するまで後見人を委ねられ小守護代職を継ぎ、中村氏を名乗り三野・佐川郷を支配し佐川松尾城主となる。

けんど、伝兵衛が成人しても小守護代職を譲らず、勢威を誇り三野・佐川郷を支配した。

土佐の中央部に居った長宗我部元親は土佐統一を図り、元亀元年(1570) 吾高北にも侵攻すると周辺の豪族諸将と共に降伏しちょります。

以前御紹介しちょりますが同年、長宗我部元親の軍代・安並但馬が斗賀野城 (二ノ部城)米森玄蕃元高を攻め落城させ、功労で城代になるがですが、その数年後、以前の城主・米森玄蕃元高を慕う農民達に惨殺されると、後任として佐川に入ったのが元親の重臣・久武内蔵助親信じゃたがです。

中村越前守信義は次女を・久武内蔵助親信に嫁がせる事で、所領の大部を保ち川内ヶ谷、藤木土居に隠棲し影の領将としての権威を温存したという。

斗賀野城址 (二ノ部城址) - 蓮池城主・大平氏家臣・田原彦右衛門年為が代官に 2017.06.27

しかし、天正7年(1579)春、長宗我部元親の西伊予および南伊予に進攻するにあたって久武内蔵助親信が軍代として出陣するも、宇和郡岡本城を攻撃中に奇略に遭って討ち死にしちょります。

その結果、中村越前守信義は再び佐川を治める事になるがですが、中村越前守信義の抬頭を喜ばぬ旧主・中山氏の一族は慶長元年(1596)居住しちょった藤木土居に夜襲をかけ、中村越前守信義は討たれたという。

現在の墓とされる祠堂は昭和50年に老人ホームができた際に移設されたそうで、元は旧道沿いにあったそうです。

それと、現在の写真の祠堂がそうか否かは分らんけんど、大正15年年=昭和元年(1926)に田中光顕が改築寄進したともいう。

【 参考・引用 】  『佐川 わが町の文化財と旧跡』 佐川町(昭和56年)




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