伊達兵部宗勝 - 関田神社は伊達兵部と家臣の曽根惣兵衛を祀る神社

関田神社(高知市)

[ 高知県高知市新屋敷 ]


前々回の記事タイトルは「梛の木は残した」 じゃったけんど、今回は江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にした山本周五郎・原作の「樅の木は残った」にも登場する伊達兵部に関わる、お話ながです。

伊達兵部は官名の兵部大輔によるもので、伊達宗勝(だて むねかつ)と言い陸奥仙台藩初代藩主・伊達政宗の十男で、仙台藩支藩・陸奥一関藩の藩主。

元和7年(1621)、伊達政宗の十男として生まれる。

異母兄・忠宗が存命中は特に目立った行動はなかったが、万治元年(1658)に忠宗が死去して綱宗が跡を継ぐと、藩祖・政宗の息子であるという自負で、綱宗の庶兄・田村宗良とともに藩政を見た。
嫡子・宗興の正室に酒井忠清の養女を迎えるなど幕府との繋がりも強く、万治3年(1660)には3万石の分知を受けて大名となった。
同年、綱宗が幕命によって隠居を余儀なくされ、その跡をわずか2歳の長男・綱村が継ぐと、宗勝はその後見人となって仙台藩を専横するようになった。
そのような中で寛文11年(1671)、伊達騒動(寛文事件)が起こり、仙台藩は改易の危機に立たされた。
これは当時、第4代将軍・徳川家綱のもとで大老として権勢を誇っていた酒井忠清と宗勝が密約を結んで、仙台藩を事実上乗っ取るつもりだったとも言われているが、幕府の裁定によって藩主・綱村は若年であるということでお咎め無しの上、仙台藩は安泰とされた。

しかし、宗勝は年長の後見役でありながらみだりに刑罰を科して仙台藩政の混乱をもたらし、果ては江戸での刃傷沙汰という不祥事を招く原因を成したとして、一関藩は改易となった。
加えて宗勝の家族には永預の処分が下され、宗勝自身は土佐藩主・山内豊昌預かり、嫡男・宗興は豊前小倉藩主・小笠原忠雄預かり、その妻子は伊予吉田藩(宇和島藩支藩)主・伊達宗純預かり、宗勝の側室2人と子4人(虎之助・兵蔵・於竹・於妻)は岩出山の伊達宗敏預かりとされた。
この処分によって一関伊達氏は宗勝一代で御家断絶となり、一関藩領3万石は仙台本藩領に復帰し、家老・新妻胤実以下一関藩士一同も仙台本藩に帰属した。

土佐藩に引き渡された宗勝は、土佐郡小高坂に設けられた配所で余生を送り、延宝7年(1679年)11月4日に死去した。
享年59。

【 参考・引用 】  伊達宗勝 - Wikipedia


そんで土佐に流罪の身となり高知城下で暮らしよった場所は何処ら辺りじゃろうと思い探しよった所、下記のような記述がありました。

伊達宗勝流謫の地

小高坂新屋敷小津高校の附近
(中略)
幕府は宗勝の政治がよくないというので、東北の果てからはるばる南海土佐のこの地に流罪したものである。
時に寛文十一年(1671)四月である。
宗勝は土佐で九年、延宝七年(1679)十一月四日歿、年五十九。
火葬にして五台山に葬る。

【 参考・引用 】  『高知市史跡めぐり』 橋詰延寿・著 (昭和44年)


関田神社(高知市)

そんで、なんぞ痕跡はないろーかと思い小津高校の周辺を探したけんど何にも成果はなかった。

ただ小津高校のある場所は、現在の地名では城北町になり、そのすぐ北西が新屋敷で傍に小高坂小学校がある。

もしかして小津高校じゃのうて(なくて)、小高坂小学校の間違いじゃないろうかと思い、再度、小高坂小学校のある新屋敷の方を散策したら、伊達兵部に関わるものを見つけたがです。

地名は新屋敷町になり、小高坂小学校北門脇きにある小さな祠に目が止まり、境内にある由来書を読んでみたがです。

関田神社(高知市)


関田神社(オサバイ様)由来

約四百年以前より現在地に鎮座
祈願成就 長寿・天候・生産(蓄財)・地鎮・守護・利発・争議等

土佐四代藩主山内豊昌時代に文芸や映画で有名な「伊達騒動」が起こりました。

(ここまで読んで、あった!と確信した次第でした)

寛文11年(1671年)四代将軍家綱評定により伊達騒動の中心人物で、四代伊達綱村後見役伊達兵部宗勝が土佐藩にお預けの身となりました。
お預け四年目の延宝3年(1675年)仙台から連れて来た家臣の七名の内の一人曽根惣兵衛が主人の無実を訴え自害しました。
人情厚い北国の武人と親しみを感じていた近隣住民は佐婆恵様(御サバイ様・現関田神社)のヤマモモの陰地に密かに小さい祠を造り柳を植えて祀ったと言われています。
お預け八年目の延宝七年(1679年)伊達兵部が病死。
兵部に尊敬の念を持っていた近隣の住民は惣兵衛を祀ったオサバイ様に祠を作ったと言われています。
しかし罪人とされた兵部を祀ることは許されませんので、表向きは収穫や守護・地鎮の神オサバイ様として密かに祭礼し、後に幕府の監視が弱まった一八七五年頃鳥居をかかげ祠が建てられました。

昭和四十年頃(1965年)道路拡張のため柳の木が切られました。
昭和四十六年(1971年)町内有志にて社殿を建て直し鳥居も作り替え今日に至っています。

新屋敷神社保存会

【 参考・引用 】  由緒書より


と言う訳で、当時は流罪人だった伊達兵部の表立った名を出せなかったため、オサバイ様の名に隠して伊達兵部と家臣の曽根惣兵衛を祀っているのが、この関田神社だったがです。

肝心の伊達兵部の流罪地の特定には至らんかったけんど、 『土佐の史跡と名勝』には下記のように記述されちょります。

伊達宗勝遺跡

(前略)
田畑一町四方を埋めて新屋敷を作った
同年十二月三日より宗勝ここに移った
屋敷の三方には堀を廻らし、南に道路を開いて警戒頗(すこぶ)る厳重であった
(中略)
病死した、後、この邸跡を撤して普通の宅地とした
今に新屋敷と稱へて居る

【 参考・引用 】  『土佐の史跡と名勝』 武市佐市郎 (昭和6年)


伊達兵部の墓 - 伊達騒動の関係者 2010.02.21
久礼八幡宮 - 長宗我部元親家臣・佐竹義直に所縁  2011.09.19





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