細川半蔵頼直 - 「からくり半蔵」の名で知られる細川半蔵邸跡付近

細川半蔵頼直邸跡付近(南国市上末松)

[ 高知県南国市上末松 ]


今回は、からくり半蔵として知られちょります、細川半蔵頼直の御紹介です。

人物の御紹介の前に、初めに「からくり人形」って、知っちょりますか?

現在風に云うたらロボットじゃねー。

室町時代末期に日本に入って来た西洋時計を工夫したものじゃけんど、当時は金属ではなく人形も歯車も全て木製じゃし、それに電子部品も無い時代じゃき、駆動装置はクジラの髭の弾性を利用したぜんまい仕掛けで動く人形をからくり人形と云い、江戸時代に盛んに作られたがです。

例えば、飛騨高山の春祭り・秋祭りで有名な高山祭の山車の人形もは人形は糸で操ったり、ゼンマイやバネ仕掛けなどで動きます。

「あーあれか」とお思いの方もおられるのではないろーか。

1600年代半ば頃、和時計の職人じゃったとされ、時計からくり」の名人と云われる竹田近江(阿波国出身)と云う人が茶運び人形を作り、その後、仕掛けの芝居を興行したのが大阪や江戸で評判となったそうながで、これが、日本のロボット工学(機械工学)の始まりだったろうと思うがです。

細川半蔵頼直邸跡付近(南国市上末松) 『機巧図彙』より 細川半蔵頼直 起草年・寛政9年(1797)

生年は不詳じゃけんど細川半蔵頼直は、寛延元年(1748)頃、長岡郡南国市上末松(現・南国市)の五代目郷士・細川理太右衛門の長男に生まれ、江戸時代の暦算家、からくり技術者、発明家じゃった人ながです。

なんでも先祖は、土佐守護代・細川頼益で、その子孫は池氏を名乗り長宗我部に仕えるが、山内氏入国後は浪人となり、初代・五兵衛と云う人が百人衆郷士として長岡郡南国市上末松に移住し、細川氏に復したとか。

細川頼益 - 細川氏一族遠州家四代目当主にして土佐守護代家始祖 2015.03.16

明和7年(1770)に郷士職を相続し六代目当主になる。

幼少より学問を好み、儒学を谷秦山の学統を継ぐ戸部愿山(土佐高知城下の能役者であったが、儒学を宮地静軒らに学ぶ、天文、歌道、医学、神道などを修得)に学び、高岡郡葉山村(現・津野町)の天文学、理学、技術、発明などに長じた万能科学者・技術者じゃった片岡直次郎に天文学と暦学を学んじょります。

この頃から、からくり人形や和時計になどにも興味があり自ら制作していたようで、京都や江戸に遊学する。

寛政3年(1791)天文学の勉強のために江戸に上る。

この時、村境の橋柱に「不揚名字天下不復過此橋(天下に名を上げずんば、再びこの橋を渡らず)」と決意のほどを書き残したと云う。

ちょっと話は余談じゃけんど岩崎弥太郎にも似たような話があるねー。

弥太郎が江戸に旅立つ前に、村の裏手の妙見山に登り、山頂の星神社の門扉に「吾れ、志を得ずんば、ふたゝび此の山に登らず」と書いたと云うお話が・・・・・。

スリーダイヤモンドに秘められた野望 - 岩崎弥太郎 2010.01.21


江戸じゃ、和算家の藤田貞資に師事して数学を学び、寛政7年(1795)公儀で改暦の議が起き、諸国から技術者が募られた際、その1人に選ばれ天文方暦作助手として寛政改暦の事業に参画したそうながです。

写天儀(天球儀または天体望遠鏡)や日時計、行程儀(万歩計)等も造ったそうで、「からくり半蔵」の名でも親しまれちょります。

逸話(世間にあまり知られていない、興味のある話。エピソード。)じゃと、半蔵が「からくりの果たし合い」をした時、半蔵が作った「ネズミのからくり」が、相手の作った「猫のからくり」を食い殺したと云う。

実際はそんなことはあり得ん訳で、それだけ細川半蔵の制作技術の方が高かったと云うお話じゃと思うがです。

寛政9年(1797)、からくりの製作方法等、仕掛けを図解した自著『機巧図彙(からくりずい)』3巻を表す。

没年は不明。

一説には、禁止されていた技術を公開しようとして死罪となったとの説や、才能を妬まれて毒殺された等の説もあるがです。

記事頭の写真は、細川半蔵頼直邸跡があったとされる付近の写真ながです。

【 参考・引用 】

『高知県人名事典』 高知新聞社 (平成11年)
『南国の歴史を歩く』 南国市教育委員会 (平成10年)
細川頼直 - Wikipedia




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