中西陽太郎 - 征韓論争を主導した岩倉具視を赤坂喰違に襲撃した一人

中西陽太郎(高知市)

[ 高知県高知市小石木  ]


嘉永2年(1829)土佐郡潮江村(現・高知市)に生まれ、名を茂樹、通称・陽太郎という。

戊辰戦争に従軍し北越で巧あり、維新後は上京し、海軍提督府警史になるが、明治6年(1873)征韓論に敗れた西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが下野すると憤慨に絶えず、明治7年(1874)1月14日夜、武市熊吉ら同志8名は赤坂喰違坂にて岩倉具視を襲撃する。

しかし、岩倉具視に怪我を負わせるも暗殺は失敗し捕われ、同年7月9日斬首刑に処せられたがです。

歳・28(墓碑より)

【 参考・引用 】  
『高知県人名事典』 高知新聞社 
『土佐の墓』 山本泰三・著 土佐史談会


中西陽太郎(高知市)

明治6年(1873年)10月に政府内で起きたいわゆる征韓論争に敗れた征韓派参議の西郷隆盛・江藤新平・板垣退助らが下野したことは、征韓論に期するところのあった不平士族らにとって、いっそうの不満を高めることとなった。
とりわけ、急病により一線を退いた太政大臣三条実美に代わって、論争を主導した右大臣岩倉具視や内務卿大久保利通に対する恨みは次第に増幅されていった。

明治7年(1874年)1月14日夜、公務を終え、赤坂の仮皇居(前年の火災により赤坂離宮を皇居としていた)から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった際、襲撃者たちがいっせいに岩倉を襲った。
襲撃者は高知県士族で、もと外務省に出仕していた武市熊吉ほか、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人。
いずれも西郷や板垣に従って職を辞した元官僚・軍人であった。
岩倉は襲撃者の攻撃により、眉の下と左腰に軽い負傷はしたものの、皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者達が岩倉の姿を見失ったため、一命を取り留めた。
ただし、精神的な動揺は大きく、公務復帰は一ヶ月後の2月23日となった(この療養中に佐賀の乱が発生している)。

知らせを聞いた内務卿大久保利通は、ただちに西郷従道とともに参内。
岩倉が軽傷と知ってひとまず安心するが、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見た大久保は、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じた。
その甲斐あって事件の3日後の1月17日には、武市熊吉ら9人は逮捕された。
現場に残された武市熊吉の下駄が手がかりになったという。
同年7月9日、司法省臨時裁判所に於いて、全員が斬罪の判決を受けて伝馬町牢屋敷にて処刑されている。

なお4年後の明治11年(1878年)、喰違見附のすぐ先にある紀尾井坂で、大久保利通が石川県士族島田一良らに襲撃されて、暗殺されている(→紀尾井坂の変)。

【 参考・引用 】  喰違の変 - Wikipedia


武市熊吉ら九名の墓・「九士之墓」 - 碑文の撰文は谷干城 2012.02.20
武市熊吉・喜久馬墓 - 岩倉具視をビビらせた男たち 2012.02.18

中西陽太郎(高知市)


[ 注意! ]
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