津野神社 - 須崎の領民が津野孫次郎親忠を偲び祀った孝山寺跡

津野神社(須崎市)

[ 高知県須崎市青木町 ]


此処は須崎市青木町にある津野神社。

御祭神は、長宗我部元親の三男になる津野孫次郎親忠公ながで、地元じゃ「津野さん」と呼ばれ親しまれちょります。

津野親忠 - 家督争いに巻込まれ末、元親に幽閉され弟・盛親が殺害 2015.11.02

津野孫次郎親忠公は、香美市土佐山田町神通寺にある津野神社に埋葬されちょりますが、須崎の領民たちが親忠公を偲び祀ったがじゃそうです。

実はこの神社傍が祖母の実家じゃったき、子供の頃の遊び場の一つじゃったがでして境内でよう遊びよったけんど、まさか此処が津野孫次郎親忠公を祀る神社の一つじゃった知ったのは、後年になってからながです・・・・・(;´∀`)・・・そうだったのか・・・。

津野神社(須崎市)

津野神社(孝山寺跡)

創建年代不詳、戦国末期津野家最後の当主津野孫次郎親忠を祀る。
親忠は土佐国主長宗我部元親の三男に生まれ、幼少より津野家に養子として入る。
豊臣秀吉の四国討伐後は人質として大阪へ行く。
秀吉の朝鮮侵攻のおり、文禄の役(1592年)に従軍渡海する。
城下を姫野々より港町須崎へと移し領国経営に専念するが長宗我部家の内紛により岩村(現香美市土佐山田町)に幽閉され、関ヶ原合戦(1600年)後に切腹する。
領民は孝山様として各地にお堂を建立する。
(後略)

【 参考・引用 】  説明板より


津野神社(須崎市)

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に味方した長宗我部盛親が敗れた後、井伊直政を通じて徳川家康に謝罪しようとしたけんど、邪な肝臣として知られちょります佐川城主・久武親直が盛親に進言した「親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」との嘘の讒言を信じた盛親によって切腹させられるがです。

此の事が災いして、逆に長宗我部家も滅亡へと突き進んで行く事に繋がるがです。

親忠の善政の下にあった領民達は悲報を聞き嘆き悲しみ、この地に空墓を築き菩提を弔らったがじゃそうです。

津野神社(須崎市)

お堂の右側には、津野孫次郎親忠公の供養塔として祀られちょります、五輪塔があるがです

南路志にゃ下記のようにある。


大智山孝山寺 禅宗清源寺末

本尊地蔵 開山夢窓国師

寺記曰 津野家之帰依寺海蔵寺ト号 中頃長林寺ト改
其節ハ寺領百廿石 塔頭六ヶ寺有之
津野家没落之節 孫次郎親忠公之菩提寺ト改来候
(中略)
慶長五年九月廿九日津野孫次郎切腹
法名孝山寺殿 故ニ長林寺ヲ改 孝山寺ト号


明治の廃仏毀釈で一時は廃寺になったものの、その数年後に津野神社として再建されたようながで、当初は神社総代で祀り続け寄ったそうじゃけんど、明治31年(1898)発生寺が再建された後、親忠公の位牌は発生寺に預けられ今日でも供養されちょります。

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この記述にゃ、元の海蔵寺の開山は夢窓国師とある。

夢窓国師とは、鎌倉時代末から南北朝時代の室町時代初期の臨済宗の禅僧でで京都南禅寺の住職でもあった人で後醍醐天皇から国師号を授かり「夢窓国師」と名乗るがです。

夢窓国師と土佐との関係では、文保2年(1318)に北条高時の権政を逃れて土佐へ来て、五台山の麓にある吸江庵を結んだ事でも知られちょります。


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余談じゃけんど、我が家は発生寺さんの檀家で、昨年御住職に御目にかかった時、「一度、親忠公の御位牌を拝ませて下さい」と御願いしちょりますき、機会があれば手を合わせに行きたいと思うちょります・・・・・。


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