濱五郎兵衛屋跡敷 - 初代は日和佐城主、赤岡で興した製塩業が町の繁栄に

赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷(香南市赤岡町)

[ 高知県香南市赤岡町 ]


赤岡町の絵金蔵と弁天座のある一角に「赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷」の説明板が建てられちょります。

赤岡浦大庄屋 濱五郎兵衛屋跡敷

初代濱五郎兵衛は日和佐城主であったが、主家細川氏の没落とともに所領を失い大阪天満へ隠遁。
慶長元年(1596)長宗我部元親の勧めで赤岡へ移住。
製塩業を起こす。
後年、山内一豊にも仕え、長宗我部遺臣団の一領具足の一揆を取り鎮め、その功により大庄屋を拝命。
竹林寺が菩提寺である。

【 参考・引用 】  説明板より


赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷(香南市赤岡町)


日和佐城主から赤岡浦大庄屋へ

今から約400年前の戦国時代、赤岡に塩田が造成され、塩市が立ち、町は塩を求める人々で賑わい、後に商都赤岡に発展したと言われます。
その塩造りに貢献したのは、浜五郎兵衛という元・日和佐城主の弟、日和佐権之守正儀でした。
天正5(1577)年 、五郎兵衛13歳の時、長宗我部元親の弟、香宗我部親泰が、阿波の海部城を攻略し、残る諸地域の侵攻を画策。
日和佐氏は、同年11月、この画策に応じて長宗我部に帰順しました。
天正10(1582)年 、五郎兵衛18歳の時、兄の備前守が中冨川の戦いで戦死したことをきっかけに武士を捨て、香宗我部親泰の勧めで大阪天満へ隠遁していましたが、慶長元(1596)年、五郎兵衛32歳の時、元親の要請をうけ、土佐赤岡に移住し、塩の製造を始めました。
「長宗我部地検帳」によると夜須庄横浜に四浜、岸本村に五八浜、赤岡浜に五二浜、今在家村(赤岡東部)に二一浜、吉川村に一〇六浜、合計二四一浜の塩浜があったとされ、塩の発展に貢献しました。
慶長5(1600)年、五郎兵衛36歳の時、山内一豊が土佐藩主になるや、一領具足の一揆を取り鎮め、功績により赤岡浦大庄屋として町づくりを任じられました。
以降、代々浜五郎兵衛を名乗り大庄屋を明治まで受け継ぎました。
なお、初代浜五郎兵衛は、51歳の時、阿波国主・蜂須賀家政から帰省勧告を受け日和佐に戻りました。

【 参考・引用 】  
『古道 塩の道を行く後編1 』日和佐城赤岡を商都にした浜五郎兵衛
広報こうなん 2011.10


赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋跡敷(香南市赤岡町)

山内一豊が土佐に入国の際にも、浜五郎兵衛宅に泊まったようです。

『山内氏時代史初稿』の慶長六年(一六〇一年)一月八日の条に、「是ヨリ先山内一豊大坂ヲ発シ二日甲浦ニ着シ、是ヨリ陸路ヲ経テ是日浦戸城ニ入ル」とある。
一豊の一行は、前年十二月二十五日に大坂を船で出て土佐をめざした。
 『家譜事実』には「五日彼地御発駕、奈半利ニ御一泊」とあるから、一月五日に甲浦を出発して、起伏の激しい野根山越えの道を進んで、奈半利で一泊している。
それは、長宗我部氏の遺臣の襲撃を懸念しつつの緊張した旅であった。
(中略)
次の七日には、赤岡の浜五郎兵衛宅にて泊る。
五郎兵衛は(山内一豊の弟)康豊の意向を受けて、前年から活動していた人物である。 

【 参考:引用 】  
256 山内一豊の入国
『高知市歴史散歩』 土佐史研究家 広谷喜十郎
高知市広報「あかるいまち」2005年9月号より抜粋引用



初代・濱五郎兵衛は51歳の時に阿波国主・蜂須賀家政(小六)に日和佐に帰住の招きを受け、三男・少兵衛と共に先祖の地・日和佐に戻り、五十石を拝領し寛永16年(1639)に病死したそうです。

赤岡に残った二男・長兵衛以降、その子孫は代々・濱五郎兵衛を名乗り大庄屋を受け継ぎ、明治に至ったそうです。

濱五郎兵衛さんが赤岡で起こした製塩業で塩市が立ち大いに賑わった事が、今日の赤岡の基盤になるがです。


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