殖田神社 - 延喜式社・土佐之國二十一座の一社で大社・土佐神社と同神とも

殖田神社(南国市)

[ 高知県南国市殖田字東野 ]


此処は、本年最初の記事で、日本の古来からの文様「猪の目懸魚」がハートマークと同じと御紹介した記事中にも登場した南国市殖田にある殖田神社(うえたじんじゃ)ながです。

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殖田神社(南国市)

一之鳥居の脇に、「延喜式内 殖田神社」の社号標が建っちょります。

此処が、創祀年代は不詳じゃけんど『延喜式神名帳』にある土佐国・小社20座20社の一つに比定されちょります旧郷社の「殖田神社」ながです。

鳥居脇の狛犬の台座にゃ安政4年とある。

殖田神社(南国市)

一之鳥居から三之鳥居までは、約150m。

殖田神社(南国市)

三之鳥居を潜ると、四之鳥居までの100m程の参道の両側にゃ、寄進された石灯篭が並んじょります。

殖田神社(南国市)

平成19年に改修された真新しい朱塗りの社殿が鎮座しちょります。

拝殿前傍にあった殖田神社の由来を記した石碑の全文を下記に記しちょきます。

殖田神社の由来

社格 延喜式内社
祭神 阿遅鋤高日子根命
鎮座地 南国市殖田字東野1267

殖田神社即ち、高賀茂大明神は、東西に連亘(れんせん)する北山の峯巒(ほうらん)を仰ぎ城ヶ谷古墳群を背に幽閉静寂なる仙境の地に鎮座する。
殖田神社は、賀茂氏の神社であり、祭神は阿遅?高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)と申し、大国主命と多紀理毘売(たきりひめ)の御子である。
阿遅?高日子根命は、別格、迦毛大神ともいわれ、賀茂氏の祖であり、人間、国土を支配し護る神、即ち国津神と古事記には記されている。
賀茂一族は、壬申の乱(672)の活躍にて、天武十二年(684)に八色の姓(やぐさのかばね)の制定により、朝臣の姓を賜わはる。
この姓の制度は八階級の氏族の身分制度で従来の姓制を廃し、皇室中心の律令制を整えるため再編成をした姓の序列で、天皇の対氏族政策の一つである。
真人(まさひと)朝臣(あそん)宿祢(すくね)忌寸(いみき)道師(みちのし)臣(おみ)連(むらし)稲置(いなぎ)の八階級で、皇室出身より地方有力豪族まで、それぞれあたへている。
朝臣の姓は皇族出身、真人の次位の姓、この高貴な姓を賜はるは、賀茂一族が「大国主命の後代」であることの所以である。
続日本紀に基づくと、「雄略天皇(478)奈良、葛城山にて御狩猟し給へるに、高賀茂の神、老夫に姿を変へて表れ給わる賜い、天皇と獲物を相追いて、争い給いしにより、天皇これを大いに怒りて、老夫を土佐国に流し給う」。
「この事を憂ひて」賀茂朝臣田守が、天平宝字八年(764)称徳天皇に奏請(そうせい)するに、天皇大いに心をいため、急ぎ土佐国より、大和の国の本拠に複し祀るらんとする。
然るに其の、和御魂(なごみしみたま)は土佐国より離れ給はざるに、猶(なお)この国に留め奉り、奉斎の成れる事と定まる。
其の四年後、賀茂朝臣田守は、高賀茂の姓を賜はり、高賀茂朝臣田守と呼ばれている。
更に三代実録によれば、貞観八年(866)には、土佐国従五位下、殖田の神、従五位上、を清和天皇より授かり、古代殖田神社の存在が、記録によって見える。
さて、高賀茂朝臣田守が、天皇に奏請せし天平宝字八年は、今を遡ること、千二百四十三年に及び、奈良時代に高賀茂朝臣田守は此の地を殖田神社と定め祖先高賀茂の神、阿遅?高日子根命を祭神と鎮座奉り給い、御身は高賀茂大明神と崇められ静寂な此の地に鎮まり給うなり。
奈良時代より日本固有の神託信仰と、外来仏教とが融合した神仏習合が起こり、神社に付属した寺(神宮寺)が建設され、平安時代になると神前読経がなされ、日本の神は仏の衆生救済のためにとった其の姿を変えてこの世に現れたものとする(本地垂迹説)仏教の立場からの説が教理づけられる。
殖田神社にも東福坊が建設され神社の実務も寺が司った傾向が、長宗我部地検帳によって見える。
室町時代より、江戸時代になると、神道勢力が増大し、反本地垂迹説が唱えられ、儒者や国学者などが神道の純粋性を論じて、廃仏思想を高唱し、明治維新政府は神仏分離策をとる。
第二次大戦後、神社は国家管理を離れ、信教の自由の見地により神社本庁に包括される宗教法人となり、神祗恩徳を奉体し、崇敬者の輪が広がり、神社・住民一体となって発展している。

神社新築、改築の歴史

延宝以前の棟札は無く、戦国の乱世に焼失したと思われる。
延宝三乙卯年十一月の棟札によると、本殿・拝殿共小枌葺の新築に建替えられている。
寛政八年丙辰六月二十五日、本殿、弊殿、拝殿一棟造、共に改築にて屋根は枌葺であったものを、文政九年二月弊殿・拝殿・向拝場所を瓦葺とした。
平成十九年四月より、本殿・弊殿・拝殿一棟造で改修を初め、拝殿の前に向拝場所を造り、本殿のみ銅版葺で、弊殿・拝殿・向拝場所は瓦葺とし、同年十二月に完成する。

平成二十年十一月吉日
久礼田地区史談会 山崎道信 撰

【 参考・』引用 】  殖田神社の由来の碑より


殖田神社(南国市)

由緒

植田部落の東方にある。
延喜式内社、土佐国二十一の内の一社。
旧郷社。
祭神は阿遅鋤高日子根神。
古くは植田神社(土佐州郡志)、高賀茂大明神(南路志)とも称した。
創祀年代未詳であるが、当地は「和名抄」長岡郡条に見える植田郷の中心地で加茂氏が居住していたと考えられる。
したがって当社も加茂氏によって奉斎されたものと思われる。

「土佐国式社考」によれば、植田神は味鋤高彦根尊のことで、土佐国一の宮(現土佐神社,高知市一宮)の祭神と同神であると考えられる。
「三大実録」貞観8年5月22日条で、「植田神」として従五位下から従五位上に昇叙した。
「延喜式」神明帳には、南国市には、「植田神社」の外に「豊岡上天神社」「小野神社」「石土神社」がある。
天正16年の植田本村地検帳に「加茂大明神」とあり、「松木林アリ」と注記される。
現在は終戦後に檜が植えられている。

【 参考・』引用 】  『全国神社祭祀祭礼総合調査』 神社本庁


殖田神社(南国市)

拝殿の屋根に乗っている経の巻瓦には「高」の字が見えるがですが、これが 「『土佐国式社考』によれば、植田神は味鋤高彦根尊のことで、土佐国一の宮(現土佐神社,高知市一宮)の祭神と同神であると考えられる。」とある、「高賀茂大明神」の意味かと・・・・・。

また拝殿の猪の目(ハートマーク)のある梅鉢懸魚の上の経の巻瓦と、神社幕にゃ「丸に桔梗紋」がありますき、これが神紋でしょうか・・・・・。
殖田神社(南国市)


土佐の中世・戦国時代にゃ、山田氏や長宗我部氏、また比江山掃部助親興のらが支配・給地した場所ですき、崇敬を受け保護され、山内氏の代になっても手厚く保護され来たと思われます。


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