久松喜代馬 - 土佐勤王党に146番目に加盟、井上佐一郎殺害で処刑

久松喜代馬(高知市)

[ 高知県高知市東秦泉寺山 ]


場所は、西真宗寺山の山の中にあります。

久松喜代馬は天保5年(1834)に高知城下の東新町(現・高知市桜井町)の久松圓次重之の三男に生まれ、名を重和というがです。

土佐では剣を麻田勘七に習うちょります。

この麻田勘七と言う人は、土佐藩馬廻格・麻田利太夫の次男として高知城下に生まれ、勘七は通称で、麻田直養(あさだ なおもと)とう。

江戸で鏡心明智流の桃井春蔵直雄に剣術を学び、土佐じゃ千頭伝四郎(千頭傳四郎)に小野派一刀流を学び、その奥義を究めて高知城下鷹匠町に小野派一刀流の剣術道場を開き、土佐藩校・致道館の剣術指南役にも推挙され多くの土佐藩士が門弟となっちょります。

「土佐一番の剣豪」とも言われた人ながです。

千頭傳四郎墓 - 武市瑞山も師事した小野派一刀流の師 2012.12.28

有名な門人にゃ、下記の人物がおったがです。

武市瑞山 (土佐勤王党の首領)
佐々木高行(勤王派の上士で、坂本龍馬を支えた一人)
毛利荒次郎(勤王派の上士で、土佐藩剣術指南役をも務めた)
岡田以蔵(血盟同志じゃないけんど、武市瑞山の指示で数々の暗殺を遂行)
島村衛吉(土佐勤王党3番目の血盟同志で、土佐勤王党の獄で獄死)
馬場来八(馬場辰猪・馬場孤蝶兄弟の父)


武市瑞山墓 - 武士としての誇りと、藩主に対する忠誠の間で 2010.07.11
佐々木高行邸跡付近 - 板垣退助・後藤象二郎と共に、土佐三伯の一人
岡田以蔵の墓 - 数奇な生涯  2010.05.09
島村衛吉墓と碑 - 土佐勤王党弾圧で拷問により獄中死  2010.10.26
自由民権運動の政論家 - 馬場辰猪誕生地  2008.12.22

久松喜代馬(高知市)

久松喜代馬は、安政元年(1854)父に従って江戸に赴き、千葉定吉の長男・千葉重太郎の北辰一刀流・桶町千葉道場(小千葉)に入門し、帰国後、剣を教えちょります。

何時頃まで江戸に居ったのかは判りませんけんど、千葉定吉の兄の千葉周作の北辰一刀流・千葉道場の『玄武館出席大概』と言う門人名簿の中に、土佐人として5番目に坂本龍馬、8番目に久松喜代馬の名があるがです。

坂本龍馬が1回目の江戸への剣術修行に出たのが嘉永6年(1853)で、千葉重太郎の桶町千葉道場(小千葉)で修業し、安政元年(1854)6月23日龍馬は土佐へ帰国しちょりますが、安政4年(1857)に再度の修行延長を願い出て江戸に出ちょりますき、この時一緒に稽古に励んだ仲で、坂本龍馬は兄弟子になるがです。

当時、上級武士は千葉周作の跡を継いだ次男・栄二郎の「玄武館」、下級武士は千葉定吉の跡を継いだ重太郎の「桶町千葉道場(小千葉)」と決まっちょうったようで、両館が共に稽古をする事はなかったそうです。

『玄武館出席大概』ちゅうのは、清河八郎が安政4~5年頃に北辰一刀流・玄武館に籍を置いちょった門人309名の名を記録し史料ながですが、上級武士の通う「玄武館」の門人の名簿の中に坂本龍馬と久松喜代馬の名があると言う事は、二名共に腕の立つ剣術士と認められちょったいう事にもなるがでしょうねー。

『玄武館出席大概』にゃ、計14名の土佐人の名があるがです。

■ 馬淵桃太郎

嘉永6年(1853年)6月3日アメリカのペリー提督率いる米艦隊(黒船)が浦賀沖に来航した時、土佐藩の品川警護に一緒にあたっちょります。

また慶応4年(1868)2月15日に起こった泉州堺事件の際、最初に切腹した第六番隊長・箕浦猪之吉の介錯人を務めたともいう。

因みに、父は土佐藩士で心学者じゃった馬淵 嘉平(まぶち かへい)。

神儒仏の思想を交えた心学(中国,南宋の陸象山や,明の王陽明の学問)は、当時、幕府によって禁学とされちょった学問でながですが、嘉平は密かに人目を避けて心学を講説し、同志の数は五十名程に増えちょったという。

土佐藩第13代・山内豊熈は、馬淵嘉平を中心とする改革派を起用して藩の財政健全化を推進させようとしたけんど、保守派の上士達からは異端視され反発を喰らい、彼らの事を「おこぜ組」と呼んだがです。

結局、馬淵嘉平達が禁学を講説しよる事が露見し、嘉平は天保14年(1843年)に投獄され、同志も次々と捕まり処分を受けるがです。

■ 山田広衛

文久元年(1861)3月4日に起こったった井口村刃傷事件(永福寺門前事件)の関係者。

永福寺門前事件(井口事件) - 永福寺 2008.11.09

■ 美濃部民次

平尾道雄・著『龍馬のすべて』にも記載されちょる、安政4年(1857)に山内容堂が江戸鍛治橋藩邸に剣客を集めて御前試合を行ったと言う仕合勝負票に名がある。

ただし、今日では偽作とされる幻の武術大会の仕合勝負票ですが。

■ 安田勝馬 

美濃部民次と同じく、平尾道雄・著『龍馬のすべて』にも記載されちょる、安政4年(1857)に山内容堂が江戸鍛治橋藩邸に剣客を集めて御前試合を行ったと言う仕合勝負票に名がある。

ただし、今日では偽作とされる幻の武術大会の仕合勝負票ですが。

■ 藤本駿次 

■ 近藤達吾 

■ 野村栄蔵 

坂本龍馬が最初に江戸に剣術修行に出た時、溝渕廣之丞と一緒に江戸に旅立った人物。 

溝渕廣之丞墓 - 嘉永6年坂本龍馬と一緒に江戸に出る  2010.11.13

■ 小南孫八郎

小南五郎右衛門の新族じゃないかと・・・・・・

■ 上田勝之助 

■ 寺田忠次 

寺田忠次は、坂本龍馬が佐久間象山の砲術塾で一緒だった寺田小膳の弟になるがです。

寺田小膳は、樋口真吉・甚内兄弟が土佐藩内に広めたという大石神影流の使い手で、藩校・致道館で剣術指南役を務めちょります。
  
■ 毛利荒次郎 

荒次郎は通称で、毛利恭助吉盛といい天保5年(1834)土佐藩御馬廻役250石・毛利吉厚(源八郎)の二男として生まれよります。

先祖は、旧豊臣家臣で豊前小倉城主・毛利勝信(壱岐守)の弟・毛利吉雄(出羽守)ながです。

毛利勝永屋敷跡付近 - 大坂の陣・大阪城五人衆の一人・父は毛利勝信 2016.08.30
毛利吉成 - 豊前国・小倉藩城主で豊臣秀吉に仕える 20140205

麻田直養(勘七)に小野派一刀流剣術を学んじょり、武市瑞山とは同門になる。

安政年中に江戸北辰一刀流の玄武館へ入門しちょりますき、坂本龍馬とも同時期の同門人になるがです。

文久元年(1861)、大坂住吉陣営にて剣術指南役を任ぜられ、文久3年(1863年)、小目付役(小監察)に任ぜられちょります。

慶応3年(1867)5月21日、中岡慎太郎の仲介により薩摩藩士・小松帯刀邸にて、土佐藩の乾退助、谷守部、中岡慎太郎らと共に、薩摩藩の西郷吉之助、吉井幸輔、小松帯刀らが会談し、薩土密約を結ぶ。

■ 岡本金馬

土佐勤王党の獄の際、武市瑞山に藩庁より下された当座の処置に名が在る。

武市半平太
右は京都に対され、そのままおかれ難く、その余不審の廉これにあり
藤岡勇七、南清兵衛、関源十郎、島村団八、仙石勇吉、町市郎左衛門、岡本金馬へ御預け
追って揚り屋入り仰せ付けられ候事

【 参考・引用 】  『武市瑞山関係文書』


と身柄を預けられた責任者の一人ながです。

また、佐幕派じゃったため、慶応3年11月に後藤象二郎や乾退助らの公議政体論および武力討幕運動に強く反対し、山内容堂に建白書を奉じた連署組と呼ばれるメンバーの一人ながです。


久松喜代馬(高知市)

久松喜代馬は、万延元年(1860)武市瑞山に従い、岡田以蔵、島村外内と共に長州、北九州方面に武者修行に出、久留米藩に滞在し、西国に名を知られたという。

文久2年(1862)、土佐勤王党の146番目の血盟同志に加盟し、同年6月、藩主山内豊範の参勤発途に随従し、8月2日大阪で藩の足軽井上佐一郎の殺害に関与しちょります。

次いで京都に随従し、さらに勅使東下には正勅使・三条実美の護衛に加わり、帰京後、三条公から紋服と麻上下を賜わったという。

尊王攘夷派として活動するがですが、藩論が尊王攘夷から公武合体へと転換して勤王党への弾圧が始まると、捕らえられた岡田以蔵の自白により元治元年(1864))井上佐一郎殺害事件に関与したことを咎められて捕縛され揚り屋入り、拷問によって自白しちょります。

慶応元年(1865)閏5月10日夜、井上佐一郎殺害の罪で処刑されよります。

享年26歳。

【 参考・引用 】  
『高知県人名事典』 高知新聞社
『続土佐偉人傳』 寺石正路・著 (大正12年)




[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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