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2017-2018「大政奉還-明治維新150周年」各地で記念事業



【高知県内】
今年平成29年(2017)は「大政奉還150年」、来年平成30年(2018)は「明治維新150年」に当たります。

2017年3月から高知では2ヶ年に渡って、「志国高知 幕末維新博 ~時代は土佐の山間より~」が開催予定です。

メイン会場

高知城歴史博物館  3月4日 オープン!
坂本龍馬記念館







【記念プロジェクト概要】

大政奉還150周年記念プロジェクト ~歴史に学び 地域でつながり 未来に活かす~


土佐藩の後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受ける。
坂本の船中八策にも影響され、在京土佐藩幹部である寺村道成、真辺正心、福岡孝弟らに大政奉還論の採用を主張した。
これに薩摩藩の小松清廉(帯刀)らも同意し、6月22日薩土盟約が締結された。
これは幕府が朝廷に大政を奉還して権力を一元化し、新たに朝廷に議事堂を設置して国是を決定すべきとするもので、その議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで「正義の者」を選挙するものとされていた。

大政奉還論はいわば平和裏に政体変革をなす構想であったが、薩摩藩がこれに同意したのは、慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にすることにあったといわれる。
そのため、盟約には土佐藩の上京出兵および将軍職・廃止を建白書に明記することが約束された。

後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率してくる予定であったが、山内容堂(前土佐藩主)は大政奉還を藩論とすることには同意したものの、上京出兵には反対し、建白書の条文から将軍職廃止の条項を削除した。
薩摩側は長州・芸州との間で武力倒幕路線も進めており、結局9月7日に薩土盟約は解消された。

10月3日、土佐藩は大政奉還・建白書を藩主・山内豊範を通じ単独で将軍・徳川慶喜に提出した。
土佐藩の建白を受け、10月13日、徳川慶喜は上洛中の40藩重臣を京都・二条城に招集し大政奉還を諮問した。


10月14日(11月9日)に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めた。
摂政・二条斉敬ら朝廷の上層部はこれに困惑したが、薩摩藩の小松清廉、土佐藩の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定した。

慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、大政奉還が成立した。

【 参考・引用 】  大政奉還 - Wikipediaより抜粋


その裏で、大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。

坂本龍馬は、後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。

11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。
従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。
龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。
享年33(満31歳没)。

江戸幕府による大政奉還を受け、朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとし新体制を作るとしたが、この間に、雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)は慶応3年12月9日に王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。

一度は、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上取り消され、それが江戸薩摩藩邸に伝えられたが、江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人はこの命令を無視して工作を続けていた。
12月23日には江戸城西ノ丸が焼失。
これも薩摩藩と通じた奥女中の犯行と噂された。
同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。
この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。
慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・大河内正質)を京都へ向け行軍させた。

慶応4年1月2日(1868年1月26日)夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。
同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。

翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。
薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も迅衝隊・胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。
逆に旧幕府の中の反乱勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。
また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

5日、山陰道鎮撫総督・西園寺公望及び東海道鎮撫総督・橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。
7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。
10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩・桑名藩・高松藩・備中松山藩・伊予松山藩・大多喜藩の官位剥奪と京屋敷を没収、3月7日に姫路藩が追加された。
藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩・大垣藩・宮津藩・延岡藩・鳥羽藩が藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。
ただし、大垣藩は10日の時点で藩主が謝罪と恭順の誓約を出していたことから、13日に新政府軍(中山道総督)の先鋒を務める事を条件に朝敵から外す確約を与えられて4月15日に正式に解除、更には戊辰戦争の功によって賞典禄まで与えられている。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失ない薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。
また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。
また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

江戸へ到着した徳川慶喜は、2月12日、慶喜は江戸城を出て上野の寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示した。

一方、明治天皇から朝敵の宣告を受けた松平容保は会津へ戻った。
容保は新政府に哀訴嘆願書を提出し天皇への恭順の姿勢は示したが、新政府の権威は認めず、武装は解かず、求められていた出頭も謝罪もしなかった。
その一方で、先の江戸での薩摩藩の騒乱行為を取り締まったため新政府からの敵意を感じていた庄内藩主・酒井忠篤と会庄同盟を結成し、薩長同盟に対抗する準備を進めた。
旧幕府に属した人々は、あるいは国許で謹慎し、またあるいは徳川慶喜に従い、またあるいは反新政府の立場から会津藩等を頼り東北地方へ逃れた。

新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。

駿府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。
しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使ハリー・パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求め、江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。

西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。
結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で両軍は衝突した。

江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大挙して江戸を脱走、下野国日光山を目指していた。
兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。

慶応4年(1868年)1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への追討を命令したが、仙台藩は行動しなかった。

2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。
新政府は徳川慶喜あるいは会津藩に対する追討軍への参加を要求し旗幟を鮮明にすることを迫ったが、使者は軍への参加を拒絶した。
会津藩も嘆願書で天皇への恭順を表明したが、新政府の権威は認めず謝罪もせず武装も解かなかった。

3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。

4月19日、藩主・伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になったが、一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。
会津藩が武装を維持し新政府の立ち入りを許さない条件で松平容保が城外へ退去し謹慎すること及び会津藩の削封という内容だった。

4月19日(閏ではなく閏4月1日以前の事件)、関東で大鳥圭介らの率いる旧幕府軍が宇都宮城を占領した。
この報が東北に伝わると仙台藩では会津藩・庄内藩と協調し新政府と敵対すべきという意見が多数となった。
閏4月4日、仙台藩主席家老・但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出した。
要求が入れられない場合は新政府軍と敵対し排除するという声明が付けられていた。
会津藩・庄内藩は恭順の姿勢を見せていなかったため閏4月17日に新政府は嘆願書を却下した。
奥羽14藩はこれを不服として征討軍の解散を決定した。
そして藩の決定として新政府軍への宣戦布告のない殺戮が始まった。

閏4月23日、新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。
さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。
会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。
奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。

8月21日、二本松周辺まで北上していた新政府軍は、同盟軍の防備の薄かった母成峠から会津盆地へ侵攻し、母成峠の戦いが行われた。
こうして会津藩兵と旧幕府方残党勢力は若松城に篭城した。
この篭城戦のさなか白虎隊の悲劇などが発生した。

9月4日、米沢藩が新政府に降伏し、米沢藩主・上杉斉憲は仙台藩に降伏勧告を行った。
その結果もあり10日に仙台藩は新政府に降伏、22日に会津藩も新政府に降伏した。
会津藩が降伏すると庄内藩も久保田領内から一斉に退却し、24日に新政府に降伏した。

榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出した。
榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。
その後、新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

【 参考・引用 】  戊辰戦争 - Wikipediaより抜粋 


明治維新は、江戸幕府に対する倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制の転換とそれに伴う一連の改革をいう。

開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。
しかし、一般的にはその前年にあたる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については幕末の項で扱うものとする)。
終了時期についても、廃藩置県の断行(明治4年、1872年)、西南戦争の終結(明治10年、1877年)、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。

江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。
その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。
合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。
なお、この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。

その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。
そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。
さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から捨てるように説かれている。

これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。

また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。

【 参考・引用 】  明治維新 - Wikipedia




最後は、あくまでも当方の考えですき。

近代日本の大きな躓きは、坂本龍馬の理想とした大政奉還は成ったものの、新政権樹立を目論む輩達には、もはや不要・目障りな坂本龍馬を暗殺し、最後まで討幕を実行した事。

しかし倒幕を成し遂げ明治維新を迎えた先に在ったものは、新政府の中心になった特に旧薩摩・長州の互いの思想の違い等から、新たな政治支配の覇権を握る対立でしかなかった。

坂本龍馬暗殺は、土佐藩の一部の者が加担したかもしれん、新政府側の犯行じゃと思うちょります。






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