竹本小弥儀 - 河田小龍が美声で名を広めた小弥儀太夫の略伝を書く

竹本小弥儀(高知市)

[ 高知県高知市・皿ヶ峰南丘西下 ]


高知市の筆山から、南嶺(筆山-皿ケ峰-鷲尾山) への登山道が続いちょりますが、皿ケ峰(高見山)を過ぎると、西側はススキなどの草が茂る平坦な場所に出ます。

目的の場所は、登山道から外れて、西側の草むらの中に入って行くがです。

竹本小弥儀(高知市)

途中からは、何処が道やら判らんような藪の中を、箭竹や棘のある植物に衣類を引っかけたり、手に傷を作ったりしながら進むと、藪の中に二基の赤茶けた墓石が並んじょります。

藪の中じゃき足元も判らんような状況で、数年前に行った時にゃ、途中に猪の罠が仕掛けられちょって、引っ掻かてしまった事が在るような場所ながです。

竹本小弥儀(高知市)

無縁墓でしょう、誰も墓参りに来ちょるような気配はありません。

オンちゃん、このお墓の主とは何ら無関係ながですが、ちょっとした切っ掛けが始まりで、数年に一度程、陽当たりを良くしちゃろーと思うて、草刈りに行っちょります。

竹本小弥儀(高知市)

小一時間程、多少なり陽射しが当たる程度に草刈りをすると、太く彫りの深い文字が刻まれたお墓が現れます。

墓の主は、竹本小弥儀太夫と言う、女義太夫の方です。

この皿ケ峰(高見山)周辺は、よう墓参りの時期等に山火事が発生する場所でして、この竹本小弥儀の墓石が赤いのと、裏面が一部黒ずんじょり(ススかな?)、石も縦に割れちょるのは火災による熱のせいじゃないかと思います。

【義太夫(ぎだゆう)】

「義太夫節(ぶし)」の略。
竹本義太夫が広めた浄瑠璃(じょうるり)の一派。
太ざおの三味線(しゃみせん)を使って語る。


竹本小弥儀(高知市)

この竹本小弥儀さんの墓碑にゃ、坂本龍馬に西洋事情を説いた河田小龍が略伝を刻んじょります。

河田小龍塾跡付近(推定・水天宮)  2009-11-25


明治十三年旧歴九月七日竹本小弥儀卒
行年二十又一惜矣哉
小弥儀姓寺内名虎音松之一女也
父音松戦死子会津譲後于従子某自○○○○
音曲為業独与母尽
而虎女妙音驚人○受業
于竹本弥儀太夫因命○称数遊阪府名声四達其卒也
聞者潜然
母春痛慟不惜建石于
其上千光寺喜平題五大字河田小龍述其略云



自己流で読んでみると、下記のような事じゃないかと思います。

明治十三年の旧歴九月七日に竹本小弥儀は亡くなる
まだ二十一歳と、惜しいことよ
小弥儀は姓を寺内、名を虎と言い、音松の一人娘である
父・音松は会津で戦死して、戦後、ここに甥・某自○○○○(碑文が剥離していて読めません)
音曲(おんぎょく)を生業にし、父亡き後は残された母に尽した
しかも、虎女は、いうにいわれぬ美しい音声だったので、聞く人々は驚いた
竹本弥儀太夫に学び、何度か大阪や東京にも行き、女義太夫としての名声は四方に広がったが、突然亡くなった
人々は皆悲しみ、母・春も、いたく嘆き悲しんだすえ、ここに墓を建てる事にした
そして、題字を千光寺喜平が書き、河田小龍が小弥儀の略伝を述べる


竹本小弥儀(高知市)

竹本小弥儀さんの右側に、両親の墓石があります。

墓には「寺内音松・同人妻春 墓」とある。

父の、寺内音松は戊辰戦争・会津若松戦で、滝沢口で戦死しちょります。

享年42歳。

父が戦死した時、小弥儀は7~8歳です。

偶々、美声じゃった事から、母を養う為に、義太夫の道を選んだのでしょうか・・・・・。

竹本小弥儀(高知市)

墓の在る場所は、直ぐ背後は山側で、直ぐ前は崖になっちょる、段のような狭い場所です。

墓石も潰えかけちょり、また傾いちょりますき、大きな地震でも来たら、前の崖下に落ちそうな状況になっちょります。


この数年、竹本小弥儀さんの事を調べて見たのですが、何も出て来ませんでした。

ただ、出向かないと閲覧出来ないのですが、国会図書館のリストの中に竹本小弥儀の名が在るのですが、活躍した時期が明治30年頃とあり、同一人物ではないようです。

師匠も同じ竹本弥儀太夫なんですが、明治13年に小弥儀さんが亡くなった後に、名前を世襲して新しい竹本小弥儀が誕生したのでしょうかねー・・・・・。


[ 注意! ]
■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・イノシシ・ハチ等に気を付けて下さい。
■ 特に3~12月頃の暖かい時期に山や藪に入る場合、マムシ(ハミ)には御注意の事!
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