東諸木城 - 岡宗泰純の『西郊餘翰』に小西行長の墓の事が

東諸木城(高知市長浜)

[ 高知県高知市春野町東諸木  ]


春野町東諸木の諸木郵便局の北東の山が東諸木城跡で、南麓のバス停諸木の北側に八幡宮がありますき、これが城八幡かと思われます・・・・・。

東諸木城跡

城主、堀内九朗左衛門。
古城記曰(いわく)、徳弘主水正(とくひろ もんどのしょう)之れに居ると。
天文二十二年(1553)正月秋利市正 一條康政東諸木の領主堀内九朗右衛門(城主の所には、九朗左衛門とあり誤記か?)の世々忠節あるを賞し、名字名乗の字を興ふ。

森城(著者)按ずるに、康政を一條兼定卿とは、恐くは誤り也。
蓋宰執にして兼定卿を補佐する者なり。

弘治二年(1556)城主某本山茂辰に降る。
永禄三年(1560)茂辰の城監元親に降る。

西郊餘翰曰、大阪城陷り、小西行長土佐国に逃れ諸木に潜居し、卒て同村に葬る。
其墳墓顣る宏大なりと。
森城(著者)按ずるに、土佐来国の事他書見る所なし、若し果て宏大の墓ありとせば、或いは好事者之が説を爲たるに非ずや未だに信ぜず。
明治二十九年十月二十五日陪遊し、(小西)行長の墳墓の所在を審撿すれども得ず、村長其他教員老人等に就て問ふ、知る者なし。


【 参考・引用 】  『土佐国古城略史 全』 宮地森城・著 (昭和十年)


この記事を書いたのは、真実は判りませんけんど、小西行長の事が記載されちょったきです。

確か今回のNHK大河「真田丸」には登場してはいないと思ったけんど、2年前の『軍師官兵衛』にはキャスティングされちょった武将で、加藤清正とは仲が悪かったと言われちょります。

その小西行長が、関ヶ原の戦いで敗れた後、土佐に落ち延びて来て、この東諸木の近くに隠れ住んで、この地で亡くなったとの、記述に関して書いちょるがです。

ここで、宮地森城が、出典としちょるのが『西郊餘翰』と言う書物です。

『西郊餘翰』とは、文化8年(1811)に、土佐藩の国学者・岡宗泰純が、土佐藩家老・深尾氏に随行して記した紀行文ながです。

岡宗泰純(おかむね たいじゅん)

明和5年(1768)生まれ、天保4年(1833)66歳で亡くなった、江戸時代後期の国学者で、名は登、通称・良蔵、号は拙斎・養拙斎。
高知城下西川岸端で医を業としていたが、土佐藩家老・深尾氏にかかえられた。
天保2年(1831)稲毛実、岡本真古らと『土佐畸人伝』を編集。
著作に『西郊余翰』。


岡本真古 - 江戸時代後期土佐庶民文化の学術研究家 2013-01-22

宮地森城(著者)が云うには、小西行長の土佐来国説は他書には記載が無いので、誰ぞが噂を流したのではないかと。

本人も、明治29年(1896)に、小西行長の墓を探したけんど判らず、地元の村長や教員や老人等にも聞いたけんど、誰も知ちゅう者は居らんかったとあるけんど、岡宗泰純も土佐藩家老・深尾氏と同行した時に聞いた話を書き記した訳じゃき、まったく出鱈目とも思えん。

本当に小西行長の墓なのか否かと言う事は別にして、話の元ネタになるような伝承が残っちょったのかも知れませんねー・・・・・。

小西行長と言う人物は、切支丹大名で関ヶ原の戦いの豊臣方の敗者、それに一説では豊臣秀吉の朝鮮出兵では、朝鮮側に情報を漏洩するなどして豊臣秀吉を裏切ったともされる人物ですき、もし本当なら、一緒に朝鮮出兵に参加した旧豊臣家の諸大名からも裏切り者とされる。

おそらく、何処に逃れるにしても、徳川幕府や、徳川方に付いた旧豊臣家の諸大名からも逃げ隠れしちょったかも知れませんき、もし墓が在るとしたら、誰にも墓の存在自体が判らんように隠ぺいされているのかも・・・・・。

これも、真実は判りません。

因みに、東諸木城のすぐ西方にゃ雀ヶ森城があります。

雀ヶ森城跡 - 城主は本山氏配下の高橋壱岐守と伝わる 2012-01-15

小西行長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
肥後宇土城主。
アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。

当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。
文禄・慶長の役では女婿宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。
関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。
自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。

【 参考・引用 】  小西行長 - Wikipedia




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