中島興市郎 - 国境まで脱藩するも足を痛め追っ手に囲まれ自害

中島興市郎墓(土佐市新居)

[ 高知県土佐市新居  ]


中嶋與一郎は天保13年(1842)高岡郡新居郷本村(現・土佐市)の富農、郷士で老役を務める曽平の二男に生まれちょります。

祖父・浅右衛門には男子が無かったため、長女の婿に兄・喜左衛門の二男・曽平を養子に迎え生まれたのが與一郎で、二女には梼原郷から竹村猪之助を養子に迎え作太郎(中嶋信行)が生まれるがです。

ですきに中島興市郎と、坂本龍馬と海援隊で活躍した中島作太郎(中嶋信行)とは、いとこ同士になるがです。

若年の頃から文武を修め、剣を千頭真之助に学び中伝の免許を与えられちょります。

憂国の志厚く、七卿落ちの起因となる文久3年(1863)8月18日の政変、武市瑞山の投獄、次いで禁門の変を聞くに及び、悲憤慷慨(ひふんこうがい:運命や社会の不正などを憤って、悲しみ嘆くこと)し、従兄弟の中嶋信行、類族(親族)に当たる細木元太郎と脱藩を謀議し、元治元年(1864)11月20日佐川で落ち合い、翌日長州に向かっちょります。

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雨に遭い雪に泥みながら土佐と伊予の国境に至る途中、與一郎は足痛のため歩行が困難となり、道中難渋しながら峠を下り、漸く夜明け頃に松山領の民家に辿り着くがですが、與一郎は足の痛みに耐えられず両人と決別して引き返すがです。

名野川郷の番所へ自首するが、問答中に話の行き違いから番卒を傷つけ、水ノ峠に逃れ大師堂で休養中の処、追手に堂を囲まれて目つぶしの灰弾を打ち込まれ応戦したそうですが、これ以上逃げる事は叶わぬ切腹をして壮絶な最期を遂げたそうです。

脱藩して僅か三日目の元治元年11月23日、享年23歳。

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社



中島興市郎墓(土佐市新居)

墓碑撰文は、一緒に脱藩した従兄弟の中嶋信行。

中島興市郎墓(土佐市新居)

墓所への上り口に「勤皇志士贈従五位中嶋與一郎先生墓」の碑と説明板が建っちょります。

勤王の志士 中嶋与市郎 清渺(1842-1864)

天保13年、新居村の郷士、老役の家に生れ、少年の頃より塚地の千頭真之助の門に入り、剣術の修行に励んだ。
長じて勤王の志を抱き、長州の高杉晋作を慕って同志の、中嶋信行(19才)、細木核太郎(26才)と謀り、元治元年11月20日脱藩を決行した。
積雪の難路を踏破し、漸く豫土国境にさしかかったころ、与市郎は足痛のため歩行困難となり、二人と分れ池川水の峠の大師堂で休息中、追っ手に囲まれて遂に自害した。
時に与市郎は、23才であった。
なお、与市郎の墓碑には、初代の衆議院議長となった同志中島信行の撰文、同人の妻俊子(湘煙)揮毫の碑文が刻まれている。
明治31年従五位を贈られた。

【 参考・引用 】  説明板より



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中島興市郎墓(土佐市新居)

「勤皇志士贈従五位中嶋與一郎先生墓」の書は、男爵中嶋久萬吉とある。

碑の題字を書いた男爵・中嶋久萬吉とは、中島信行の長男で、実の母は、陸奥宗光の妹・初穂((1877死去)です。

中島信行の後妻になったのが、女性解放運動家・岸田俊子(湘煙)ながです。

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