加納院團子堂 - 幕末の観音堂は廃寺になり、後に此処に移り再建

加納院團子堂(高知市)

[ 高知県高知市上町五丁目  ]


今回は、前回の記事「龍馬居眠りの堤」の説明板の設置されちょります観音堂を、鏡川左岸の堤から見た境内の秋の風情です。

加納院團子堂(高知市)

正式ににゃ、新月橋加納院團子堂です。

以前のお堂が老朽化したために、新しいお堂は入り口側の道路を向いた、北向きに建て替えられちょります。

加納院團子堂(高知市)

この観音堂は、土佐西国三十三観音霊場・第33番にもなっちょりまして、御本尊は、十一面観音菩薩がお祀りされちょります。

加納院團子堂(高知市)

建て替え前とは場所が違うけんど、入口傍に移された石碑「土佐西国三十三番加納院観音堂」には、是より東十三間とありますき、元々は此処ではなかったがですねー。

東十三間と言うと凡そ24m程西にあった事になりますき、今の新月橋を通る県道37号高知春野線と観音堂前の道が交差する辺りじゃないかと思われます。

龍馬居眠りの堤(高知市)

木の標柱にゃ「西国第三十三番観音堂 高祖弘法大師御寶号 御本尊如意輪観音菩薩」とある。

御寶号とは仏さんや菩薩さんの名前の事ですが、今の御本尊十一面観音菩薩とは別に如意輪観音菩薩もお祀りされちょると言うことかな?・・・・・

真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。

六観音は六道輪廻(、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。

【 参考・引用 】  観音菩薩 - Wikipedia


所で、この観音堂は、龍馬ファンにゃ別の意味で知られちょります。

文久2年(1862)4月8日夜に起こった土佐藩参政・吉田東洋暗殺事件。

参政・吉田東洋暗殺地 2009-03-17
吉田東洋墓所 - 幕末の土佐に必要不可欠な人じゃった 2010-10-10
吉田東洋邸跡 - 東洋は城中からの帰邸途中、邸傍で暗殺される 2016-01-13

吉田東洋が高知城二ノ丸御殿で藩主・山内豊範に『日本外史』と『信長記』を講義し、酒肴が振る舞われ夜遅くになって雨の降る中、ほろ酔い加減で帰宅途中、待ち伏せしちょった土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺されるがですが、吉田東洋の首を他の仲間と受け渡ししたのが、思案橋にあった観音堂だったがです。

暗殺犯三名はそのまま伊予に脱藩し、吉田東洋の首は他の仲間によって雁切橋(現・紅葉橋)傍の河原に晒されたがです。

ただ、文久2年(1862)当時の観音堂は此処じゃありませんき。

幕末当時は、今の思案橋を西に渡った辺りに番所があり、その少し西の方に観音堂があったがです。

今でも、観音堂があった前の道を西に行けば、雁切橋(現・紅葉橋)に続いちょちます。

思案橋 - 水道町 2008-10-15

加納院團子堂(高知市)

今の場所にある観音堂が、幕末当時の観音堂の場所じゃない証拠は、境内にある記念碑に刻まれちょります。

記念碑

本堂ハ一名ヲ團子堂ト称シ本尊ハ十一面観音行基ノ作ト傅フ
大同元年ノ創立ニシテ井口ノ堂ノ岡ニ在リシヲ山内家入国シ高知開市ト共ニ本町筋五丁目思案橋畔ニ移サレ高知市名所ノ一(ひとつ)ト成レリ
明治初年廃寺トセラレタルモ通町四五両町相謀リテ馬頭観音ヲ合祭シ其共有ニ係ル築屋敷ニ再建シタルヲ今後両町ノ協力ヲ以テ之カ改築ヲ決議シ乃チ大正十年六月起工同八月竣工シタル
高知県教育會長 安藝愛山 誌


創建当時は井口の堂ノ岡にあったが、山内一豊が入国して高知城下が開かれた際に思案橋畔に移され、明治維新後の廃仏稀釈で廃寺になったのを、現在の築屋敷に再建したと記されちょりますき、事件当時の観音堂は此処じゃありません。

因みに、碑の誌を書いた高知県教育會長・安藝愛山とは誰の事かと言うと安藝喜代香の事ながです。

安藝喜代香は、坂本龍馬の兄・坂本権平直方さんが再々婚した3番目の妻・仲の妹・錠と安藝市郎の子供になります。

血縁関係は無いけんど、一応、親族になるがです。

安藝喜代香 - 母の姉は坂本龍馬の兄・権平さんの後妻 2013-01-30

桂浜にある坂本龍馬彰勲碑の裏面の建立に関わった人たちの中にも、名前が刻まれちょります。

坂本龍馬彰勲碑 - 桂浜で坂本龍馬像と共に観て欲しい石碑 2010-11-18

加納院團子堂(高知市)

加納院團子堂(高知市)

上二枚の写真は、建て替え前のお堂ながです。

此処は住職等は居りませんけんど、金子橋にある称名寺さんが管理されちょるようです。

称名寺 - 長宗我部元親・石田光成・山内家にも関係するお寺さん 2011-10-19

昔は、ちょっと陰気な雰囲気の境内じゃったけんど、改築後はお堂も境内も明るく綺麗になっちょり、境内の保存樹木に指定されちょる銀杏の木も色付いちょります。

加納院團子堂(高知市)

最後に境内にある石碑を一つ。

碑には「九州人 六部ノ碑 昭和七年十一月建立」とあります。

六部とは「六十六部」の略で、書写した法華経を全国66ヵ国の霊地に奉納するために回国した僧で、出立ちは覆鉢型の笠をかぶり、鼠もめんの衣をに帯の前に鉦(かね)をたらし、厨子を背負った姿で巡礼したそうで、室町時代からで近世にかけて流行という。

しかし、近世末になると一般の庶民もいたそうですが、中には「渡世の六部」と称される巡礼者を真似た「偽物」も出現したそうです。

それも単独ではなく数人の集団で、道端で往来の人から銭や食べ物等の施し物を貰うと言う、物乞い同然の職業的な輩が存在しちょったそうです。

明治4年(1871)に出された「太政官布告」で、組織だった偽・六十六部と称される輩達の行動は禁止されるがです。

ただ、本来の目的で廻国巡礼する人々は例外で、四国巡礼のお遍路さんのように自らの意志で巡礼する行為は現在でも違法じゃないがです。

この碑は、昭和7年に六十六部廻国巡礼に九州から来た人が居ったと言う証拠です。

「六十六部」とは何か

 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。
これは、日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者です。
中世には専業宗教者が一般的でしたが、山伏などと区別のつかない場合も少なくありませんでした。
また、近世には俗人が行う廻国巡礼も見られました。なお、奉納経典66部のことを指して六十六部という場合もあります。

 六十六部廻国巡礼の風習がいつ、どのように始まったのかは、はっきりしません。
縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」です。
北条時政の前世は法華経66部を66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けたと説くのです。
また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世を六十六部廻国聖とする伝承が定着していました。
これらは、六十六部廻国巡礼の起源が関東にある可能性を示唆しています。

 史料的には、13世紀前半にすでに六十六部廻国が行われていたことが確認できますが、いつまで遡るのかは不明です。
さかんに行われたのは室町時代以降、とくに近世でした。

 六十六部廻国聖による納経は、その名の由来どおり1国1カ所が原則的でしたが、なかには1国内で66カ所をめぐった簡略形もありましたし、逆に1国66カ所を66カ国分納経した例もあります。
いずれにせよ、固定された納経霊場がないのが特徴でした。

【 参考・引用 】
徳島県立博物館ニュース49[2002年]「レファレンスQ&A」欄を改題・改稿より抜粋引用 




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