阿波塚 - 長宗我部と激戦の末、討たれた多くの阿波兵の霊を祀る

阿波塚(南国市国分)

[ 高知県南国市国分 ]


国分寺の北北東約2Kmの所に、この阿波塚神社があり、無数の五輪塔があるがです。

阿波塚(南国市国分)

長宗我部七代兼光の頃は、長宗我部家はまだあまり大きな勢力にはなっていませんでした。
このころ豊永に、小笠原左近太夫という大豪族がいました。
阿波の一部まで領地があり、香長平野に進出しようと好期をひそかにうかがっていました。
時を得て、小笠原師は阿波兵を配下として南に下り、国分の北平曽に陣を整え、岡豊に向かって一挙に進撃を開始しました。
守戦一方の兼光は、日頃から信心する岡豊八幡宮に戦勝を祈願しました。
すると、不思議にもお宮がパッと明るくなって一振の金の鉾が飛び出し、阿波勢の陣の上を縦横無尽に飛びまわりました。
寄手の阿波勢は、おじ恐れてただひれ伏すばかりでした。
長宗我部勢は時をおかずに追撃し、いたるところで阿波兵を討ちとりました。
なかでも平曽の戦は激烈をきわめ、見るまに阿波兵の死骸で山ができました。
これを埋葬した場所が阿波塚といわれています。
また、戦勝に導いた金の鉾が降り立った場所は鉾ノ内と呼ばれ、現在の岡豊ふれあい館付近に地名が残っています。
阿波塚には色々の異変が起こったので、長宗我部氏も捨ておけず、祠堂を建てて霊を慰めようとしました。
しかし、この塚にまつわる怪奇な話はその後もあとを絶ちませんでした。
そのため元親は、永禄年間、長門国(今の山口県)壁雲寺の高僧通安が、土佐の山野を行脚して法力を行ったところ怪奇な事件はぱったりと止んだといわれています。
歴史を経て、阿波塚は今も地元の方の手で大切に受け継がれています。

【 参考・引用 】
なんこく歴史散歩 第33回 -阿波塚- 広報なんこく(平成27年8月号)


阿波塚(南国市国分)

清和源氏新羅三郎義光八十代之孫
小笠原中将源頼忠公南北朝時代
土佐国長岡郡殖田郷豊永城主也

領地豊永二千六百貫○○○○○○
土佐本山合す本城阿波国○○○○○
阿波小笠原阿波守従四位源義盛語
兵卒豊永より軍岡豊城攻る豊永城
前阿波井(粟井)城と云ひ長岡郡
大豊村大平土居を館跡とす源頼忠
嫡流二十五代胤小笠原宗家記之

昭和四十五年霜月記之

【 参考・引用 】 神社の壁にあった説明書より


因みに、神社の壁の説明書にあった新羅三郎義光とは、河内源氏2代目棟梁・源頼義の三男・源義光の事ながです。

兄弟三人共に、それぞれが元服の儀式を行った場所の名が別名で付き、呼ばれちょります。

長男・源義家=八幡太郎義家(京都の岩清水八幡で元服)
次男・源義綱=賀茂二郎義綱(京都の上賀茂神社で元服)
三男・源義光=新羅三郎義光(大津三井寺(園城寺)北院にある新羅善神堂で元服)



MapFan地図へ
関連記事

  



0 Comments

Leave a comment