飛鳥井曽衣 - 一条氏滅亡後、長宗我部元親に招かれて岡豊城に

猫塚(高知市大津)

[ 高知県高知市大津  ]


高知市と南国市の境辺りに大津と言う所がありますが、とさでん交通御免線の領石電停の南の山の東麓に、飛鳥井曽衣さんのお墓と記念碑が建っちょります。

「曽衣(そい)」は号で、本名は飛鳥井雅量(あすかい まさかず)と言い、藤原北家難波家の流れをくむ羽林家の一つでで蹴鞠を代々家芸を継承する名家で、話はちょっと逸れるけんど、京都府京都市上京区今出川通堀川にある白峯神宮は、配流されてその地で歿した崇徳天皇・淳仁天皇を祀る神社じゃけんど、神社のある場所が元は飛鳥井家の屋敷の跡じゃそうで、そうした由来からか蹴鞠の守護神が、現在では球技全般の神さんとされ、特にサッカーの神さんとして知られちょります。

その飛鳥井曽衣も、当然、蹴鞠家としても知られ、また歌人としても知られちょりますが、祖父は正四位下左近衛少将権中納言雅康、大伯父の正二位権大納言雅親も、歌人、書家として有名じゃったそうです。

享禄3年(1530)9月に従五位下、同5年5月侍従となり、その後従四位下少将に叙任され、「曽衣」と号したそうです。

号「曽衣」の由来は、南朝(吉野朝廷)関係の説話を収録した室町時代の説話集『吉野捨遺(よしのしゅうい)』に収められちょる『徒然草』でも有名な吉田兼好(兼好法師)の歌「思ひたつ 木曽の麻布 浅くのみ 染めてやむべき 袖の色香は」からじゃそうです。

飛鳥井曽衣さんが土佐にやって来たのは、天文(1532-1555)・永禄(1558-1570)の頃と言いますき、ちょうどNHK大河「真田丸」の時代とダブルがす。

何ぜも、京都の乱を避けて、親族である土佐七守護の一つ・幡多の一条氏の賓客として下り、家門五家の一人になっちょります。

永禄6年(1563)に津野定勝に蹴鞠の秘奥を教授したと『蹴鞠八足ノ図』に伝えるとありますき、永禄年間の初めにゃ既に土佐に来ちょたがです。

NHK大河「真田丸」じゃと豊臣家の茶々(淀殿)の父・浅井長政と朝倉義景が織田信長に攻められて滅んだ翌年の天正2年(1574)に、長宗我部元親は幡多中村の政情不安を理由に一条内政を長岡郡大津城に移し、後を吉良親貞に駐留させ事実上、一条政権を崩壊させ、更に、天正9年(1581)波川氏の謀反を理由に一条内政を伊予に放逐し土佐一条氏を消滅させるがです。

飛鳥井曽衣は、一条氏が滅亡すると長宗我部元親に岡豊城に招かれ、元親や子弟、家臣らに蹴鞠を教えたと言う。

その後、病死しちょりますが生年没年が不詳です。

因みに、武市瑞山の叔母が妻になる、国学者・鹿持雅澄は、飛鳥井曽衣の子孫になります。

鹿持雅澄生誕地・邸跡 - 妻は武市半平太の叔母 2010-04-14

【 参考・引用 】  『高知県人名事典』 高知新聞社



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