真田幸村・大野治長・後藤又兵衛 - 土佐に残る伝承及ぶ関連事項

へんろ石(香南市野市町)

[ 高知県吾川郡仁淀川町・仁淀川上流域 ]


今回の写真は、記事に直接関わる場所を特定するものではなくイメージで、山深い武田勝頼伝承の残る吾川郡仁淀川町を流れる仁淀川の上流です。


NHK大河「真田丸」も、そろそろエンディングになろうとしちょりますが、まずはこれまで当ブログで御紹介したNHK大河「真田丸」に直接もしくは間接的にでも関係しちょった記事のリストです。


■ 武田家最後の当主 武田四郎勝頼
伝・武田勝頼墓 1 - 天目山の一戦に敗れ土佐に逃れて来たと伝承あり 2016-10-31
伝・武田勝頼墓 2 - 土佐に逃れて来て大崎玄蕃と名を変えたと伝わる 2016-11-02

■ 武田勝頼旧臣 孕石和泉守元泰・小右衛門元成父子
孕石元成 - 父・孕石元泰と共に武田勝頼の家臣じゃった 2016-11-04

■ 明智十兵衛光秀と娘婿・明智左馬之助光春(明智秀満)
明智光秀・明智光春墓 - 土佐に来た明智光春の子孫が先祖供養に 2016-11-06

■ 石田治部少三成の娘
九反田地蔵尊 2009-04-11

■ 石田三成旧臣 雨森氏康
雨森氏康 - 大坂冬の陣、土佐藩第2代藩主・山内忠義に従って出陣 2016-10-05

■ 豊臣秀吉旧臣 薄田隼人正兼相(説)
岩見重太郎の塚 - 大阪夏の陣で討ち死にした薄田兼相の前身 2015-07-06

■ 大阪城五人衆 明石掃部守全登
明石掃部守全登 - 切支丹大名で「大坂夏の陣」では五人衆の一人 2016-06-20

■ 大阪城五人衆 毛利豊前守勝永
毛利勝永屋敷跡付近 - 大坂の陣・大阪城五人衆の一人・父は毛利勝信 2016-08-30

■ 大阪城五人衆 長宗我部右衛門太郎盛親
長宗我部盛親公慰霊之碑 - 400年忌に遺徳を偲び建てられる 2016-05-13

■ 長宗我部盛親旧臣 桑名弥次兵衛吉成
比江山城跡 - 長宗我部国親の弟・ 国康の二男・比江山掃部助親興 2016-09-25

■ 長宗我部盛親旧臣 五百蔵藤次郎左馬進
五百蔵筑後守 - 山田氏滅亡後、長宗我部氏に仕える 2016-08-28

■ 長宗我部盛親旧臣 国吉五左衛門幸親
前身は小間物商「橘屋」 - 純真が、お馬さんに「かんざし」を買った店 2015-07-17

そして、まだ記事が無いのがNHK大河「真田丸」でも重要な登場人物の下記の3名。

■ 大阪城五人衆 真田左衛門佐信繁
■ 大阪城五人衆 後藤又兵衛基次
■ 豊臣家家臣 大野修理亮治長


真田信繁(幸村)・後藤又兵衛・大野治長の3名は、土佐には何ら関係の無いと思われる人物たちですが、実は彼らにも後日談の土佐の伝承や、間接的なつながりがあったがです。


切っ掛けは、高知(仁淀川村/高瀬地区) の「天界集落の煌き History of Takase」というサイトでした。

その、「【第一章】天界の村」の中に、興味深い名が記載されちょったがです。

・・・・・
吉野川の最奥部にある高知県大川村は、「四国第一の深山幽谷なり、昔は土佐にもあらず、伊予へもつかず、阿波へも党せず、筒井、和田、伊東、山中、大薮の五党この郷をわけてつかさどる」と小さな独立共和国であったことが記されている。
筒井とは筒井順慶の末裔らしく、同村の筒井家には順慶に宛てた信長の朱印状が保存されている。
近くにも筒井家の正統があり、由緒ある太刀や鎧などを持っているという。
隣の集落には、真田幸村の後裔、また、南北朝で敗れた新田(新田義貞)氏の流れをくむ家もあるらしい。
そのほか例を挙げればキリがない。
四国の山奥には、武田勝頼大野治長、南朝系の山岳武士などにまつわる伝承に彩られた数多くの小さな集落が山頂近くから谷川近くまであちこちに点在している。
・・・・・

【 参考・引用 】
【第一章】天界の村 |
天界集落の煌き History of Takase | 高知(仁淀川村/高瀬地区) |
水土の礎:



如何にも、興味深い記事じゃったがです。

そんで、調べて見たがですよ。

ほいたら、出て来たがです。

ただ、各々の伝承地は自転車じゃ行けれんような山間部のようだし(武田勝頼伝承地だけは行ったけんど)、詳細な場所も不明でしたので、今回は記事だけで御紹介したいと思います。


■ 大阪城五人衆 真田左衛門佐信繁

持っちょった『土佐史談目録 第1号~第200号(1917~1996)』を調べたら、『土佐史談 47号』に「新聞雜見 眞田幸村の後裔森村で私塾を開く / p220~220」として、真田信繁に関連する記事が掲載されちょる事が判ったがです。

【 高知新聞 昭和9年(1934)4月3日付 記事 】

その実兄を徳川方に廻し、大坂夏の陣に従って殉死した真田幸村親子の武名は、今に至るも伝えられているが、その後裔が仙境森村溜井にあって私塾を開いていたことが、今回同部落改良組合長千頭吉馬氏の下に記されている事が判明した。
即ち同氏の手許には滋野棟綱より六代を経て真田幸村があり、大阪の役起るや長兄信幸は形勢非と見て徳川方に加勢したるに反し、幸村は恩顧の豊臣方のために天晴れ武士道に殉じたもので、第三子信好僅か二才なるを幸村の戦死後断絶の虞をなして、ひそかに土佐、下知の地に落して徳川方の厳しい検挙を恐れ、真田の姓を沢田に改め、又六文銭の定紋を三つ巴に替えて、以来、信正-弘方-信友-信道に至るまで代々山田に在り、信賢に至りて土佐郡本川郷に住居し、土佐郡森郷溜井の千頭吉右衛門の養子となり、武家の流れの故を以て自来沢田姓を称えて信克に至り、その後私塾を開いて郷党の子弟を教育している。
当時森郷大庄屋和田丹五郎氏も苗字帯刀二男末子に至るまで勝手に許した旨が記されているが、明治三十年代に幸常に至り実子なく、同家の委託管理者千頭家に宝物一切託されたものであることが判明するに至ったものでもなんとか名門の後を続けたいと考慮していると

【 参考・引用 】 
 『土佐史談 47号』 「新聞雜見 眞田幸村の後裔森村で私塾を開く」  p220~220


ただ、「信好」とは誰?

真田信繁の子供には、該当する名が見つからんかった。

因みに、この記事を更に調べよったら、土佐観光ガイドボランティア協会を設立し会長を務めちょった岩崎義郎氏の『龍馬・お龍・土佐 土佐語り部の秘録』に、此の記事の事を取材した詳細が「真田幸村の後裔」として掲載されちょりましたので、詳しい事は、そちらを参照してみて下さい。

因みに、この本には「武田勝頼」の事も掲載されちょりました。


■ 豊臣家家臣 大野修理亮治長

通説では、大阪城で自害しちょります。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願うがかなわず、秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した。
『春日社司祐範記』は「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」と記している。
享年47。

【 参考・引用 】 大野治長 - Wikipedia


まず、『土佐諸家系図』と言う古書で調べた結果です。

・・・関ヶ原御陳之時ハ関東之御供シテ功アリ 太閤御他界已後押而秀頼ノ後見トス 
大阪城落城之時生捕レ 被レ誅実ハ讃岐ニ遁シカ・・・


ここには、「実は讃岐に逃れたかと」もある。

また、大野治長の弟、治房について  

治房
元和元五月廿六日大路ヲ引き渡サレ京都六条川原ニテ梟首
大坂陳生害
治房実者岡山陳敗北ヨリ逐電ス土佐国高岡郡ニ来ル由後人語レ之可レ尋
一子


京都で梟首というも、大野治長の弟・治房と子が土佐高岡郡に逃れて来たと・・・・・。

【 参考・引用 】 
『土佐諸家系図』 第21冊 竹内専次・編
東京大学史料編纂所 史料編纂所データベースより


逃れたかも知れないとする記述が

慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の後、秀頼の遺児・豊臣国松を擁して大坂城から脱出しようとしたが、徳川方に捕縛された。
その後に自害したとされるがその日時は伝わっていないため、逃れて生き延びたともされる。

【 参考・引用 】 大野治房 - Wikipedia


そして、最後に、伝承のある『仁淀村史』を調べて見たがです。

「長者に来た大野治長」

元和元(1615)年四月、大阪夏の陣の際、長者村から大阪方へ多額の軍用金を送った。
このことから大野修理亮治長は、土佐に長者村のあることを知って、同年五月八日大阪城落城とともに、ひそかに大阪城を逃れ、財宝を携えて長者村に落ち延びたと伝えられる。
治長は竹谷の字竹本乙六二三番に豪華な邸宅を構え、夏は夏羽織を着るなど、豪勢な生活に明け暮れた。
人々は皆これをうらやみ、長者様と称して、人々から大いに尊敬されたという。
豊臣氏の禄高表によると大野治長一万一〇〇〇石を与えられていた。
大野治長は定説では大阪城落城の際、豊臣秀頼に殉じて自殺したとされている。
大正四年の『長者村誌』に「竹谷修理塚 元和元年大阪夏ノ陣ノ際 大野修理之亮逃レテ来リシテ埋葬ナリ」と記されている。
今もなお竹谷字西シ乙五八三番に豪華さを物語るかのような大きな大野修理夫妻の墓碑が苔むして立っていて、左(下記)の戒名などの文字が深く刻まれている。

表      千時元禄六年
   皈空寿永祏信禅定門具位
       酉癸正月念二日
裏      先祖 大野修理

表      元禄六年
   本空花月禅定妻具位
       四月念八日
裏      大野修理妻

この墓碑二基の間に苔むした平らな石は修理の娘の墓と伝えられている。
大野修理は長者村に来てから、平左衛門と名を改めて、長者村の年寄役を務め、子孫代々年寄役で村の年貢取り立てをも扱った。
平左衛門の嫡子 小兵衛は明歴四(1658)年の地検帳にあって、小野姓を名乗っている。
修理の孫 善助の長男 小野新兵衛は能筆家で年寄の中から選ばれて庄屋となり、久喜村に就任している。
小野家の最後の年寄は小野源太郎で、明治三年五月まで務めている。
以上のように大野修理亮治長が大阪から逃れて来たという説は、これを確証付ける記録がない。
しかし、正保年間(1644-1647)名野川郷森山から大野五兵衛が長者村庄屋として就任し、庄屋所の年貢取り立て、村の出納を取り扱う役目を修理と称していたもののようで、いつしか治長が大阪城を逃れて来たという説となったものとも考察される。

【 出典・引用 】  『仁淀村史』(追補) 平成17年


とありました。

ここでも、ちょっと疑問に思うたのは

山奥の一集落から大阪方に軍資金を送れる程の財力を誰が送ったのか?


一瞬考えたのが、土佐に落ち延びて来たという武田四郎勝頼=大崎玄蕃の事。

武田四郎勝頼にしたら、織田信長とその同盟者・徳川家康によって甲斐武田氏一族は滅んだようなもんじゃき、憎っくき敵ですよねー。

もし、武田四郎勝頼=大崎玄蕃じゃったとしたら、徳川家康を倒すために資金援助をしたかもしれんと思うたがです。

ただ、武田四郎勝頼=大崎玄蕃の隠れ住ん所ったとされる高吾北(現・佐川町、越知町、仁淀川町地域)の諸豪族は既に長宗我部氏に降ったし、関ヶ原で長宗我部氏が敗れた後は、山内一豊が入国しちょった時代ながです。

オンちゃんの根拠の無い妄想じゃけんど、長宗我部氏改易後土佐に入って来た山内氏に対して、旧長宗我部に組していた高吾北の諸豪族の中にゃ反感を持っちょった者もおったと思う。

もしも、その中の一人が武田四郎勝頼=大崎玄蕃じゃったとしたら、如何じゃろー。

さらに、長宗我部盛親が再び大阪の陣に参戦したと知ったら、山内氏の監視等もあったろーから明け透けに援軍は送れんけんど、軍資金ならばと高吾北の諸豪族を説き伏せて、秘かに用建て送るぐらいの事はしたかも知れません・・・・・。

実は、大野治長が逃れて来たと言う伝承の地と、武田四郎勝頼=大崎玄蕃の逃れ住んだ大崎とは、地図上で直線距離で約8Kmしかない。

ただ、当時の道も、蛇行した川沿じゃったろーから、現在の最短の舗装道路を通っても約15Kmながです。

けんど、15Km言うたら遠いように思うけんど、高知県庁から高知龍馬空港までの距離とほぼ同じながです。

これ以上は判りませんが、あくまでも伝承じゃけんど武田四郎勝頼=大崎玄蕃の伝承地の周辺に、武田の旧臣になる真田信繁(幸村)の子や、徳川と敵対した大野治長や明石掃部守全登も逃れ住んだと言うのも、歴史のロマンじゃないろーか。

考え方によっちゃ、皆、「打倒!徳川」で、団結できますろー。

いつの日か「徳川を倒そう」と誓い合って、秘かに土佐の山深い地に籠っちょったのかも知れませんぜよ・・・・・。


■ 大阪城五人衆 後藤又兵衛基次

後藤又兵衛は伝承ではなく、幕末の土佐藩参政・後藤象二郎との繋がりです。

実は全く関係の無いように思われますが、後藤氏は先祖にゃ藤原鎌足もいる藤原氏34代・藤原利仁(ふじわら の としひと)の後裔を称する氏族じゃそうです。

その系図を見ると、46代目・後藤右兵衛尉基綱から数えて24代目の支流に後藤象二郎の名があるがです。

土佐後藤家の先祖は46代目・後藤右兵衛尉基綱から数えて14代目になる後藤福基です。

後藤家の祖は、藤原北家利仁流の美作後藤氏である。
後藤家は南北朝時代から戦国時代にかけての200年間、美作国の三星城を居城としたが、天正7年(1579年)5月に落城した。
慶長6年(1601年)、土佐藩主山内一豊が土佐から上洛する途中の大坂で、嫡子後藤助右衛門と共に召抱えられた。
福基は禄500石を与えられて御使母衣(従六位相当)に列した。
某年月日死去。

【 参考・引用 】  後藤福基 - Wikipedia



後藤象二郎生誕地 2009-08-27

また同じ46代目・後藤右兵衛尉基重からの支流・播磨後藤氏14代後の子孫に、後藤又兵衛基次の名があるがです。

後藤 基次は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。
黒田氏、豊臣氏の家臣。
通称は後藤 又兵衛。
黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。

諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。
父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(基国?・後藤氏当主・伯父説あり)の次男として生まれた。

【 参考・引用 】  後藤基次 - Wikipedia


ですから、明治維新も別の見方をしたら、大阪城五人衆の一人で勇猛な武将じゃったと伝えられる後藤又兵衛基次が大阪夏の陣で乱戦の中に討死してから凡そ250年後 、同じ血が流れちゅう土佐藩参政・後藤象二郎が大政奉還に導き徳川幕府を崩壊させた。

オンちゃん的にゃ、何度も書けんど武田四郎勝頼=大崎玄蕃、真田信繁(幸村)、大野治長、明石掃部守全登、後藤又兵衛らの敵討が成就したようにも思えます。

「徳川の首を取ったぞ!」と、天からの勝鬨の声が、土佐の山間に木霊したかもねー。


まだ在るか無いかは判らんけんど、取り合えず土佐の「真田丸」関係の伝承等は、これにて「完」。

伝承も含め、歴史的にも、土佐は「まっこと面白い国」ですき・・・・・


今回の記事の市町村区分

伝・真田幸村子孫
[ 高知県土佐郡土佐町 ]

伝・大野治長
[ 高知県吾川郡仁淀川町長者 ]

後藤又兵衛(血脈)
[ 高知県高知市与力町 ]


関連記事

  



0 Comments

Leave a comment