吉野朝廷時代古戦場跡 - 元の碑の位置は由比直枝屋敷傍だった

吉野朝廷(南北朝)時代古戦場跡(高知市升形)

[ 高知県高知市升形・出雲神社  ]


以前にも御紹介しちょりますが、土佐の南北朝の古戦場の碑ながです。

建武3年(1336)建武の新政に背き足利尊氏が京に上り持明院統の光明天皇を擁立し北朝を開くがです。

それに対して大覚寺統の後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開いた。

これより明徳3年(1392)まで、全国で南朝方、北朝方に分かれた豪族たちが入り乱れて争いが起こったがです。

土佐でも、この周辺が大高坂城(現・高知城)の大高坂松王丸ら南朝方と、足利尊氏の重臣「細川氏」ら北朝方との最大の激戦地じゃったそうです。

吉野(南北)朝廷時代古戦場跡 2009-08-21

吉野朝廷(南北朝)時代古戦場跡

南北朝時代(1333-1392)の土佐は、足利尊氏の重臣である細川氏の支配下にあって北朝勢力がかなり強かったが、南朝勢力は
大高坂城(現在の高知城と同一地)を本拠とした大高坂松王丸を中心に頑張っていて、両派の争いが長く続いた。
やがて後醍醐天皇の皇子の花園宮満良親王、新田綿打入道、金沢左近将監らの武将が下向して加わり、南朝方は一時勢力をもりかえした。
そこで北朝方はここ升形近辺にあったといわれる安楽寺に砦を築いて、大高坂城への攻撃をくり返しおこなった。
一方、新田、金沢らは花園宮を奉じて潮江山(筆山)に陣をもうけ、数千騎が大高坂城を救援しようとした。
その最も激しい戦いがくり広げられたのが、このあたりであったといわれる。
「佐伯文書」によると大高坂城は興国元年(暦応3年・1340)に陥落、松王丸は城の西木戸あたりで戦死したといわれ、花園宮はその後西国方面へ脱出した。
なお松王丸の墓はもと高知市役所敷地内の大公孫樹(銀杏)の場所にあったと伝えられ大高坂神社が建てられたが、戦災で焼失したため昭和21年に久万の松熊神社に合祀された。
市役所広場には松王丸の記念碑が建てられている。

高知市教育委員会

【 参考・引用 】  説明板より 


因みに、新田綿打入道為氏は、南朝方の新田一族で、南朝の総大将として忠節を尽くた新田義貞と共に戦かった。

金沢左近将監は、新田義貞が鎌倉攻めの際、化粧坂方面の総大将として三千騎を差し向ける。

太平記を描いた読み物にゃ数々ありますが、山岡荘八 『新太平記』 や吉川英治 『私本太平記』など、一度、読んでみては。

面白いですよ。


実は、説明文にもあったように、この周辺一帯が古戦場だった訳ですから特に「何処と」特定するものではないけんど、『描かれた高知市 高知市史 絵図地図編』p118にある「最新大高知市街地図 昭和10年(1935) 高知興信所発行」を見よったら、吉野朝廷(南北朝)時代古戦場跡の碑は元は、現・電停「升形」と電停「グランド通り」の北側にある織田歯科病院の北側辺りに表記されちょりました。

【 参考・引用 】 
 『描かれた高知市 高知市史 絵図地図編』 高知市発行(平成24年)


吉野朝廷(南北朝)時代古戦場跡碑元の場所周辺(高知市升形)

出雲大社の鳥居傍から電車通りの北側に見える矢印の辺りに、当初は碑が建てられちょったようです。

当時の地図と現在の地図を見比べると、多少区画が違うちょりますき、その後、区画整理等の際、直ぐ傍のこの出雲神社鳥居脇に移し替えられたがじゃないかと思われます。


それと、もう一つ説明板にもあった、大高坂松王丸の墓に関して、再度。

松王丸の墓はもと高知市役所敷地内の大公孫樹(銀杏)の場所にあったと伝えられ大高坂神社が建てられたが、戦災で焼失したため昭和21年に久万の松熊神社に合祀された。
市役所広場には松王丸の記念碑が建てられている。


となっちょりますが、『土佐古城略史・全』の大高坂城に記述では、ちょっと違うちょりました。

初代梅ノ宮の墓西ノ岡にあり。
西ノ岡は今の高知市新越戸の辺にして、墓は即ち同所由比直枝屋敷内土蔵の東にあり。

二代遠江房の墓は土佐郡旭村赤石民落の南田間にあり。

三代松王丸墓は土佐郡神田村八枚橋の南、芳野(吉野)路の右傍田間に在る。
一小龕これ也。
後世松王丸を訛て松尾神社と云ふ。
八枚橋は今の三ノ瀬橋也。

四代長門寺墓は高知市帯屋町弘小路、県庁の南市役所内大杏樹の本にあり

五代権頭能重軍に信親に従ひ、豊後戸次川に戦死す。

六代松久万丸大高坂與助と称す。
後、山内公に仕ふ、同宗宮地五郎左衛門親房の養子となる。
墓は初月村中久万にあり、土民松久万神社と称し祭る是れなり。

【 参考・引用 】  
土佐古城略史 巻之四 土佐郡之部
大高坂城
『土佐古城略史・全』 宮地森城・著(昭和10年)


とあり、『土佐古城略史・全』では、県庁の南市役所内大杏樹(高知市役所敷地内の大公孫樹)にあるのは、三代・大高坂松王丸の墓ではなく、四代・長門寺の墓となるがですが。

どっちが、正しいのか判りませんが・・・・・。

因みに、『土佐古城略史・全』の方で、初代から六代までのお墓とされる場所を掲載してみます。

初代梅ノ宮の墓西ノ岡にあり。
西ノ岡は今の高知市新越戸の辺にして、墓は即ち同所由比直枝屋敷内土蔵の東にあり。


ヒントは「由比直枝屋敷」でした。

由比直枝 - 土佐藩船「夕顔丸」の船長で龍馬とも面識がある 2013-11-25

因みに、由比直枝は由比猪内の養子になっちょります。

二人とも、坂本龍馬にも絡んできますが・・・・・。

由比猪内 - イカルス号事件で談判した土佐藩代表の一人 2013-08-05


吉野朝廷(南北朝)時代古戦場跡(高知市升形)

その由比直枝屋敷のあった場所は、『高知城下町読本 改訂本』p31の高知廓中図に「百五十石 由比猪内」とあります。

写真、交差点左辺りの駐車場から上(南側)が由比直枝屋敷のあった場所辺りになりますき、この辺りに、大高坂氏初代梅ノ宮の墓や、元の吉野朝廷(南北朝)時代古戦場跡碑も建っちょったようです。

二代遠江房の墓は土佐郡旭村赤石民落の南田間にあり。


旭村赤石は、電停「旭駅前通」から電停「旭町1丁目」の北側辺りに、現在でも赤石の町名で残っちょり、明治の近代日本の文芸評論・思想家じゃった田岡嶺雲の生誕地も赤石町あります。

田岡嶺雲生誕地 - 反骨精神(いごっそう)の土佐人 2012-04-04

現在は、周囲は宅地になっちょり、田畑はありませんき何処とは判断できません・・・・・。

三代松王丸墓は土佐郡神田村八枚橋の南、芳野(吉野)路の右傍田間に在る。
一小龕これ也。
後世松王丸を訛て松尾神社と云ふ。
八枚橋は今の三ノ瀬橋也。


三代目・大高坂松王丸の墓は、土佐道路・石立交差点の南にある松尾神社が墓所と言うことになる。

松尾神社 - 大高坂城主「松王丸」が訛って「松尾神社」となったとも・・・ 2013-12-21

それとも、『土佐古城略史・全』が書かれたのは昭和10年じゃけんど、その後、終戦までの間に 四代目・長門寺と同じ場所に移されたがでしょうか・・・・・。

「南北朝」所縁の地 - 大高坂松王丸の記念碑 2009-08-20

上の記事が、、『土佐古城略史・全』じゃ、四代目・長門寺とされるのが、県庁の南市役所内大杏樹(高知市役所敷地内の大公孫樹)のある場所ながです。

五代権頭能重軍に信親に従ひ、豊後戸次川に戦死す。


五代は、長宗我部氏の九州遠征で、豊後戸次川(現・大分県)で討死にしちょりますき、土佐には墓は無い。

六代松久万丸大高坂與助と称す。
後、山内公に仕ふ、同宗宮地五郎左衛門親房の養子となる。
墓は初月村中久万にあり、土民松久万神社と称し祭る是れなり。



松熊神社 - 祭神は大高坂城城主・大高坂松王丸を祀る 2013-12-30

兎に角、良く判りませんが、現在はこの松熊神社に、大高坂氏累代の霊をお祀りしちょるようです。


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